VERBA VOLANT, SCRIPTA MANENT.

如星的茶葉暮らし

■ 10月中旬 ■

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酒の一滴は血の一滴。茶の一滴は心の一滴。ネタの一滴は人生の発露。


 

【2006-10-14-土】

久しぶりのWeb小説更新

皆様とっくにお忘れの可能性が高いですが、当方は二次創作小説サイトであります。……にしてはWeb上での最後の新作公開が今年一月の「雪の境界」ってのはどうなのよ、という日々でしたが、ようやく今回色々と加筆・改筆等着手し、公開の運びとなりました。

というわけで、春に出した「未来の一つの顔」の如星部分をWeb公開しました。また実は最近ちまちまと、君望小説の旧作を新フォーマット化・紙小説版修正反映を行っています。「夏への扉」「憧れの未来の向こうに」辺りですので、既にお読みの方も気が向いた時にでも読み返してやってください:)

また雪の境界の公開頃から採用しているページフォーマットに今回手を加え、「横幅字数制限のオンオフ機能」をつけてみました。これはWeb短編公開者共通の悩み、改行位置をコントロールしたいが物理改行を入れるのはダルい、また自分の好きなページ幅で見たい人もいるし、という悩みへの一つの如星解として、読み手側でオンオフできればいいんでは、という形で設置したものです。ページ左手のナビゲーション下にボタンがついてますので、一度お試しください。メジャーブラウザでは多分一揃い動くと思うのですが……(IE系とFirefoxで確認)、何か不具合、または改造のご提案等あれば(笑)、如星までお寄せくださいませ。

今日の一滴="−−−−" (2006/10/14)

【2006-10-17-火】

如星が血液型性格分類を嫌う理由

これは決して愉快な話ではないし、巧く自分の中で整理して書くのも難しい話なのだけど、何故?と聞かれることが最近しばしばあったのでまとめてみようと思う。

結論を端的に言えば、血液型性格分類は人種差別だから、という一言に尽きる。──こう書くと、何を大袈裟な、と言われるのが大抵のオチだ。しかしそう思う人にこそ、何とかこの理由を説明したい。言われたその場で綺麗に反論できるほど単純な話でもないので、自分の中の考えをまとめる意味でも、一度文章にしておこうと思うのだ。

とりあえず先に、誤解を生みそうな点をあらかじめ断っておく。

「占い」は別に構わない

問題にしてるのは「性格分類」のみ。かの現実主義者・古代ローマ人ですら、兵士の士気高揚の為と割り切り、出陣の際に将軍が鶏占いをしてたと言うではないか(笑)。そんな意味でも、如星はホロスコープ等を含めた占いは時に有益だとすら思ってる。占いは未来への助言に過ぎず、偏見は現在への評価である。両者は、まるで違う存在なのだ。

科学的根拠ゼロ、というのが理由ではない

世の中の多くの「アンチ血液型性格分類」の多くがこれを理由に掲げ、そしてそこで理由が終わってるのだけど、自分にとってそこは理由の一端にこそなれ、大した論点ではない。むしろ非科学的という理由のみで反論した場合、他のあらゆる非科学的な存在(占いとか御神籤とか宗教とか)を同様に糾弾するのか、という話にズレ込んでしまう。無論、ニセ科学として事実であるかの如く喧伝する輩は害毒でしかないのだが。

ちなみに生理学的根拠がない、という現実自体は「もはや論じるまでもない」のでスルー。論じたければ適当にぐぐってくだされ。この点を以って戦うのは、まぁ煙草の害を論じるのと似たような話になってしまう。宗教論争をしたいわけでもないしね。

また逆に、例えば将来生理学の発展によって若干の関連性が示されたとしても、あるいは今でも心理学的見地から影響力があるという論点もあるが、元々無根拠性自体を主軸に置いてないので、如星が性格分類を嫌う理由への反論には大してならない。

しかし、飲み屋の冗談という言い訳は通じない

とまぁ随分と穏健なことを前書きしたが(苦笑)、しかし一方で「根拠が無いのは知ってるけど遊びでやってるだけだから」等の良くある言い訳もまた、如星がこれを嫌う理由に大しては何ら反論にならない。むしろそれは「反論できない空気の生成」という加害に加担している台詞だったりする。その辺をこれから書いてみようと思う。

んで、本題

さて最初にも書いたとおり、如星が血液型性格分類を嫌う理由は、それが遺伝的性質に基づくステレオタイピング差別だからだ。だから以下の話は血液型以外にも全てのステレオタイピングに当てはまる。後天的な偏見(オタク辺りが分かりやすい)にも一部当てはまるけど、後天的属性については、その偏見のある道を自ら選んだこと(足抜けも可能)、完全に謂れの無い話でない場合があること等から、「どう足掻いても逃れられず」「しかも根拠がまるで無い」先天性属性よりは重みはだいぶ軽い。あ、環境等本人には不可避の属性も実質先天と扱うべきなのは言うまでもない。

まずこの手の偏見の第一次被害は、多数派によって連呼される、という状態で始まる。前にも少し書いたけど、別に悪辣な差別意識でもって中傷されまくる、というだけが差別ではない。無邪気にそれが自然と信じる人々により、好事があれば属性のおかげで努力を無視され、悪事があれば根拠もなく属性によって非難される。一つ一つは「冗談」と誤魔化される様な些細な事も多いが、それは降り止まない粉雪のように、どんなにそれが煩わしくとも貴方に積もり続ける。そしていつしか「度が過ぎる」属性偏見をぶつけられた時に一次被害は最大となるが、この時も多数派の空気の前に、貴方には襲ってきた雪崩を避けることも許されない。この空気こそが、最悪の第二次被害の根源である。

例えば、そんな度の過ぎる偏見者に反論を試みたとしよう。多くの場合、返ってくる反応は二つだ。

まず、「そうやって反論してくるのが〜の証し」というパターン。どんなに論理的な反論を構築しても、そもそもその論理を展開する土俵に相手は上がってこない。反論したという事象そのものを、差別補強の材料に使われてしまう。口を開けば開くほど「そういう反論をする奴が嫌い」という議論以前の段階で差別が深まっていく。──この悔しさ、想像できないだろうか。例えば自分が何を書いても「所詮は〜ユーザー」というレッテルで両断する輩が圧倒的多数だったとしたら。どんなに理性的反論を試みても「これだから日本人は」で片付けられるとしたら。「その協調性のなさが〜型」「流石は理屈っぽい〜型」という反応台詞は、これらとまったく同種のものなのだ。

次いで第二のパターンが、時に第一に続く形でも登場する。「冗談なのに」ブラックジョーク五箇条でも触れたが、これは弁護のように見えて最低の逃げだ。いや、むしろ二重に相手を攻撃する言葉といって良い。冷静に考えて欲しい、これは偏見的な扱いで傷ついた相手に対する、「たかが冗談で傷つくお前が悪い」という宣言に他ならない。中傷と冗談の境界線を一方的に決めつけ、俺は悪くない、お前が悪い、だから俺はこれからも同じ偏見をお前にぶつけるぞ──そんな撤回や謝罪とは正反対の宣言を、「ジョーク」という言葉で誤魔化しているだけなのだ。(ちなみにこの台詞、いじめやその他各種差別の加害者が、何か事件があった際に良く口にする。「冗談のつもりだった」「本気で悩んでいるとは思ってなかった」──それが免罪符どころか、相手を二度殺す言葉だとは露ほども考えずに。)

そして常に、この二つのパターンを支えるのが無言の多数派だ。差別的行動は多数派の支持なしには行えない。無邪気な多数派は、前述のように平素は針の筵として機能し(第一次被害)、そして度の過ぎる偏見、露骨なパターンが行使された際には、無言の支持者として機能する。例え心の中では少々度が過ぎていると感じていても、それを口に出し、行動として援護に回ってくれる「多数派」など滅多に現れない。日頃から自然に信じているが故の漠然とした納得感、常識への挑戦。それらの壁は、積極的に援護してくれようとする友人でもなければ越えられずに終わるものなのだ。これこそが、「遊びでやってるだけだから」という台詞が免罪符にならない所以である。日頃から遊びで利用している多数派こそが、その遊びを踏み越えて攻撃をする連中の土壌となるのだから。

差別されたら、偏見を受けたら、反論すればいい、戦えばいいと、被差別経験の無い人は気軽に言う。だが戦う土俵に上がる事自体の、如何に困難なことか。相手は個人ではなく、社会であり常識である。冗談だから、気にしなければ良いと人は言う。だが反論自体を封じられた状態で、しかも四六時中降り掛かる雨の、如何に辛いことか。時に雫を掃えるのなら、戦えるのなら、人の心はまだ平静を保って生きてゆけるのだが。そして何より、生まれ持った属性は辞められない。人は社会からも逃れられない。逃げ場が無いという現実は、被差別側に回ったときに痛烈に感じられるだろう。

──以上が、アメリカで徹底的な人種差別を受け、大衆として機能する先天属性差別の恐ろしさを身を以って知ったが故の、如星の主張である。人種差別ほど酷い話じゃない、一つ一つが些細である、根拠があるかもしれない──そんな事は「どうでもいい」ことなのだ。心に留め置いて欲しい。血液型のような些細な差別意識ですら、時に現実問題として仕事や人間関係上の大きな被害を生み出しており、そしてそれは「極端な一部の人だけの問題」ではなく、些細な意識の積み重ねを持つ多数派が背後に控えているが故だということを。

だったらどうしろと言うのさ

さて。以上で如星の主張は終わりだが、しかし「じゃあどうしろと」という声もあるだろう。如星自身、手短にまとめてみようとした結果が上の体たらくである。飲み会で血液型を聞かれるたびに上の演説をおっぱじめようものなら、次からは二度と集まりに声が掛からない事は保証する(苦笑)。また血液型性格分類の信奉者を敵とみなして攻撃的に生きるのも不毛だ。信念派を理性で動かすのは困難だし、そもそも大多数の人間は「ネタレベル」でこれを信じているに過ぎない。ネタにマジレスという「冗談扱い」が返ってくるのがオチだ。

故に。もし貴方に心あらば、この「常識の現実」に抵抗してみようと思うなら。第一に、自らは血液型分類をネタとしてすら使わないというシンプルな方法がある。そして第二に、他者にこれをネタとして使われた場合には、興味ナス、あるいは少し難しいが「くだらない」と一笑に付し、そしてスルーして別の話題に持っていければ理想だ。要は「ネタにしてもつまんない」という状態こそが、多数派の筵を突き崩す一助になるのだから。狂信者の始末は、少数派に転落すれば「多数派」が勝手にやってくれる。あと、何も社会全体で少数派に落とそうと壮大に悩む事も無い──貴方の周囲のコミュニティで少数派であれば、十分なのだ。そしてその行為が、時に貴方が知らずして、誰かを救うこともあるかと思う。

繰り返しになるが、偏見や差別で真に恐ろしいのは、最後に手を下す狂信者ではない。純朴に偏見を自然と信じる「普通の人」なのだ。狂信者をいくら刈ったところで、豊かな土壌から、彼らは何度でも蘇る。故に目指すべきは土壌を痩せさせることであり、まぁちと胡散臭い台詞をあえて言わせてもらうなら、それは誰でも手軽にできることだと思うのだ。

「各々好き勝手やれ」の如星にしては珍しく他者を説得するような話になってしもた。……ま、これを言うのは反則だとは分かってるんだけど、それでも──人種差別ってのは、忘れ得ぬ酷い経験ですよ。如星自身は「血液型差別の酷いケース」を蒙ったことはないのだけど、類似の偏見に対してすら義憤に駆られるぐらい、ね。

今日の一滴="−−−−" (2006/10/17)

【2006-10-18-水】

言い訳で安心するのは自分だけ

プレゼンで言い訳するな、という定説は「プレゼン 言い訳」でぐぐれば山ほど掛かる。要は「準備期間が短かったので」「PCが不調で」「この件については不慣れなもので」等々の言い訳を前置きにつける人は多いけど、それらの言い訳で安心するのは自分だけ、という話だ。聞かされる側にしてみれば「だったら準備万端になってから呼べよアホ」と感じるだけである。

プレゼンに限らず、人間ついつい自分の結果に対して言い訳をしたくなる。如星自身、うっかりすると小説の後書き辺りで言い訳を挟んでみたくもなる。こういう行為って、日本人特有の「自分のモノは卑下して提示する」という文化になんとなく合ってるように思えるからかもしれない。だが、純粋に謙ってモノを提示するのと、逃げ道を用意するために言い訳を提示するのを混同してはマズいだろう。「つまらないものですが」と贈り物を渡すのと、「いや時間がなかったもので」とコンビニ袋の本気でつまらない代物を渡すのは全然別の行為なのだから。

──や、最近ちょいと「言い訳するぐらいなら開き直れよ」と思うことが諸所あったモンで。「空気読まなくてすみませんが」とか言い訳しながら放言かまされると、じゃあ空気読めばいいじゃんと思ってしまうのが我が性である:) あるいは、堂々言いたい放題やっちまう根性を持ちましょう。

今日の一滴="紅茶:ヌワラエリヤ(青山TF)" (2006/10/18)


 
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