VERBA VOLANT, SCRIPTA MANENT.

如星的茶葉暮らし

■ 09月上旬 ■

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酒の一滴は血の一滴。茶の一滴は心の一滴。ネタの一滴は人生の発露。


 

【2006-09-01-金】

日記補完

コミケ辺りの日記をようやく補完。主に2日目、3日目など。

L is dead.

精神的絶不調継続中。

つーかですね、余人は知らず、少なくとも如星にとってメインPC環境というのは、公私にわたる字義通りの生活基盤なんですよ。同人活動するのも、持ち帰りの仕事をこなすのも、コミュニケーションも、趣味情報拾うのも、人生の多くがPCとネット環境を基点にしてるわけで。そんな生活基盤が不安定な状態で、かつ復旧もトラブル続きで手間と時間ばかりが消費されていく状態に苛立ち、鬱々とした日々を過ごしてるって、そんなに理解できないコトですかね?

ま、上に書いたような重要性等の話が他者に理解され得るかは知らないし、そもそも理解を求めもしません。ただ少なくとも他人からは窺い知れない様々な状況が想定されるなかで、安易に「それぐらいの事で」なんて台詞を言える神経はそれこそ理解しがたいというだけなんですわ。隣の芝は青く輝くではないが、少なくとも他人の人生を「暢気」などと評せるほど自分が苦労人だと思い込む厚顔さは自分にはないし、あるいはその苦労を推し量れる程の深い関係を結んでる人はごく一握りなわけで。俺とは一生無縁な台詞なだけに、理解にも非常に苦しんでいるってのが実情です。

も・ち・ろ・ん、無断リンク禁止禁止をアホらしいと思うと同様、如星はあらゆる痛い言明を行う権利を尊重していますよ? クラークの愛したスリカンダの仏教徒達ではないけど、如星は別に何も「禁止」しないし、する権利もないわけで。ただ単に、そのような言明を行う人間を如星的価値基準の中で下位に置くというだけのことです:)

普段このような愚痴はご指名つきでやるのだけど、まぁ時には如星の精神骨子の一つとして公開するのもいいかなと思いここで記載。そして愚痴日記は本日で心底打ち止め。あーほんと、こういうエントリは何より自分によろしくないね(かと言って書くのを辞めたりはしないのである:)

あ、ちなみにこの日記を書いてる時点ではすでに環境も精神も復調してるので念の為。

今日の一滴="−−−−" (2006/09/01)

【2006-09-08-金】

ショーシャンク再訪:ジワタネホの記憶

好きな映画を一本だけ選べと言われたら、迷わず「ショーシャンクの空に」を選ぶ。

本来これって精々ジャンル毎の一番を選ぶぐらいしかできない、いわゆる「答えられない質問」の類なのだけど、それを押してなお一番と言い切れてしまうほど、この映画は如星にとっての「魂の一本」なのである。……なのだが、実は最近まで手元にDVDで置いてたりはしなかった。先日amazonのカートフラッシュ目的で何か適当なアイテムは無いかと思案してる時にふとそれを思い出し、最近DVDが新パッケージで復活してたおかげで無事手に入れることができたのだ。

さておき。もう何度見ても心に響く映画なのだけど、如星が一番グッとくるポイントはどうも世の中一般に言われてる主題とは少々違うようである。特に今回改めてゆっくり見返して、前回観た時は知らなかったhollowのアヴェンジャーの台詞、そのポイントを明確に言語化した台詞が強く脳裏に蘇った。

一般に、この映画の主題は「希望」とされている。細かく言えば「希望を捨てるな」であり、それは確かに映画終盤の台詞にも明確に現れている。希望は猛毒と言うレッドと、希望は不可侵の芯であると言うアンディ。しかし希望を貫き通すという話だけであれば、それは「雷雨の夜」で物語は完結していたと思う。もしあのシーン辺りで映画が終わっていれば、ああ確かに希望はいいものだな、ぐらいの印象で終わり、魂の一本とまで呼ぶほどの作品にはならなかっただろう。確かに単に感動系の話ではなく、ユージュアル・サスペクツ辺りを思わせるトリックスターぶりや映像の美しさまで盛り込んだ、実に巧い映画だなぁとは思っただろうけど。

しかし、この映画はその「一番長い夜」では終わらない。長めのエピローグのようなレッドの話が続くのだが、如星が「泣く」のは実はこのシーンに入ってからだ。このレッドの話は単なるエピローグではなく、それまでの全編を通じた各エピソードに一気に意味を付加する、もう一つの主題を語った核心部分だと思う。それは陳腐な単語を使うならば「友」であり、やはり細かく言えば「共に希望を紡ぐ誰かがそばにいること」なのだろう。アンディも一人では塀の中で希望を貫き通せはしなかったかもしれない。そして新たな人生を始めた時には、共に歩む存在を求めたのだ。ブルックスは孤独故に塀の外に耐え切れず、レッドは友の存在で塀の外側に踏み止まった──それこそが、如星がこの映画に見い出す「主題」である。「人生楽在相知心」至言とする自分だけに、この主題は強く強く心に響くのだ。

そこで浮かぶのが、前述のアヴェンジャーの台詞である。

「人間は自分しか救う事はできない。他人の為に他人を救おうなんてのは死に値する言い訳だ。
そんな綺麗事では誰も救えない。
だがそれでもなお、自分以外のものを救えると信じるのなら。
せめて、笑いながら救いに行け。一緒に苦楽を共にしようなんて、間違っても抱くな。
共有するのは楽だけでいい」

「その荷物は誰も持ってやる事はできない。自分で抱えるしかない。人間に支え合う事ができるのは荷物じゃなく、荷物の重さで倒れそうな体だけだ」

──Fate/hollow ataraxia

……ああそうだ。共にすべきは苦労などではない。病人の横で病気を拾っても何の慰めにもならないように、苦労に苦労を並べたところで、救いにはなり得ない。他人の苦労など完全には理解なんてできないし、代わりに背負える程度の苦労であれば「絶望」とは呼ばないだろう。楽しみは共有することで倍になるが、辛さは共有して半分になるようなモノではない。故に、苦しい時に共にあれという言葉の真意は、苦しみの時間、苦労という荷物を背負ってゆく途上で、その慰めになる時間、絶望の隙間、苦楽の「楽」の部分──つまりは「希望」こそを共有し、強める事で相手を支えよということではないか。確かに自分自身に当てはめても、辛い時に救いとなったのは、辛い中にあるささやかな「楽しみ」を共にしてくれる人の存在であった。これを映画の中で言うなれば、それは塀の中の一本の煙草、陽光の下で飲む冷えたビール、希望へと繋がるリタ・ヘイワース。人は誰しも一人では生きられず、そして調達屋という存在は、そういえば人と人とを繋ぐ要のような存在である。そしてレッドはアンディの希望を支えはしたが、例えば一方でシスターからの暴行からアンディを救ったのは監守たちという別の暴力に過ぎず、それが更に深い絶望を呼ぶことになっている辺り、この映画はやっぱり実に興味深い。

(逆に、相手の苦労を心底理解し、苦労を共にすることで他者を救おうとする行為は、それこそ一生を全力で捧げてようやく一人救えるか、というぐらいな茨の道なのだ。一応、不可能とは言わないけれど。)

アンディが目指し、レッドが目指したジワタネホ。如星にとって、そこは単なる「希望の地」ではない。そこはあくまで「友を待つ地」であり、そして「友が待つ地」なのである。

余談1

長くなったので別エントリに独立

余談2

今回見返して気づいた点をもう一つ。これぐらい言葉に重きを置き、言葉による情報量の多い映画だと、やっぱり字幕では情報量≒面白さが1/3ぐらいになってるなぁ、ということ。ま、これはシリアス映画だと毎度あることではあるのだが、しかしよくよく見ると明らかに誤訳なシーンもちらほらあったのは気になるところ。確かに字数制限で超訳しなきゃいけないのは分かるんだけど、字数制限に関わらずエラく訳者主観判断入りすぎな訳もあったし。

ちなみに囚人会話ってことで当然難しい(?)スラングも多いので、英語字幕で見られるDVDはかなり有難かった:)

今日の一滴="−−−−" (2006/09/08)

【2006-09-09-土】

ホロウの追憶・弱者と現実主義者

それにしても、今更ながらホロウは如星の琴線に響く台詞が多い。今更と言っても、後から別の作品を眺めている時にふとその言葉が追いかけてくるような、そんな残り方をしてるから当然ともいえるのだけど。これはこの作品が一連の奈須作品の中で唯一、バゼットという「弱い主人公」を扱ってるからかもしれない。

まぁシオン辺りどうかっつーと、あまり考察できるほど内面は登場しないけど、若干バゼットに近くとも「ほっとけば手首を切りかねない脆弱性」はないだろう。無論バゼットにも「相手を敵と認識することで踏み止まる」ぐらいな芸当はあったりするのだが、踏み止まった上で一気にブチ切れてみせる間桐桜(笑)ほどな凄みもない。……というわけで、ここまで人間的に脆いキャラって、奈須作品においては主人公以外でも(端役の小悪党ですらあまり思い当たらん)珍しい存在だと思う。

と言っても、脆弱な存在を扱うからといって、素直に「弱い存在が勇気付けられる」類の台詞があるわけではないのは言うまでもない。あったとしても、そんなモンが琴線に触れるほど如星も素直じゃなくなってきているし(苦笑)。そもそもバゼットの豆腐の心を覆う外装は「脆い理想主義」で出来ていて、素で読むとFateの士郎に対するのにも似た苛立ちを覚えそうな気がする。が、そうならないのはもちろん、カウンターウェイトとしてのアンリの存在があるからだ。ある面において、アンリは冷酷なまでの現実主義者である。現実主義者とは現実と妥協する者のことではなく、現実を認識した上で対処を考える者のことであり、それ故に現実を直視できない理想主義者に憎まれる存在である──という塩野七生の台詞を体現する、マキアヴェッリやチェーザレ寄りの存在。「その通り、お前は負け犬なわけだが何か」と言い切った上で話を進めるアンリの小気味よさは、単に士郎の理想論にうんざりした後で登場したからというだけではあるまい:) 彼は「悪を肯定する」という表現で現実を直視した上で、実は飄々と結構理想論も述べてたりもする、文字通りの「鏡面存在としての正義の味方」なのだ──それこそが、如星が「avenge night」で言いたかった事の全てでもある(とか作品外で言うヒマがあったら、さっさとこの話もWeb公開しなきゃね)

こんなにも人間的に脆いバゼットと、矛盾した正義の味方たるアンリ。コンビという意味では式と黒桐並みの最高の組み合わせが、どちらかと言えば現実単体を突き放して語る傾向のあった今までの奈須節「語りキャラ」に比べ、弱い存在という語りの対象を得た上での名言を生み出しているのだろう。主人公として見ても、志貴は結局はピンの存在だし、士郎もセイバーや凛とペアになってるかと言われると疑問だし。そういえば先日のショーシャンクに登場するレッドとアンディのコンビも、本当に強いのはどっちだ、という鏡面構造が魅力になってる辺りがバゼットたちと少し似てるのだなー。

この連想でついでに書いておくと、物語としての完成度は今ひとつなTH2の中で、ささらシナリオに二次創作小説を書き進めてしまう程に入れ込んだのは、彼女がそれこそ「手首を切りかねない」脆弱性を持っている癖に、カウンターウェイトになるはずの主人公までが荒縄で首を吊りそうな存在であったからである。……ほら、アンリに入れ込んだ直後だから、彼らにとってのアヴェンジャーになってみたかったわけでありますよ(笑)。その目論見は一応、半分は夏の作品で実現させたつもりだけど、果てさて。

今日の一滴="−−−−" (2006/09/09)


 
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