VERBA VOLANT, SCRIPTA MANENT.

如星的茶葉暮らし

■ 11月下旬 ■

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酒の一滴は血の一滴。茶の一滴は心の一滴。ネタの一滴は人生の発露。


 

【2005-11-20-日】

Fate/avenge night II

というわけで、遅まきながら“Fate/hollow ataraxia”のレビューなど。

大きくネタバレということで、12月に入るまでは一応隠蔽しておきましょう。ってもう後少ししかないのだけど。(2005.12.01追記:解禁。まぁ上の方にはそもそもあまりネタばれ要素は書いてないので、バレが困る方はすばやくスクロールしてください(笑)。あるいは猫跨ぎを。

ファンディスクとして

まずは、なかなかに良くできた一作でしたね。

登場キャラについて追加情報を与える、ってのはファンディスクの重要な役割(?)の一つだと思うけど、むやみに「過去の新たな事実」とやらを追加して、本編の語り味や受け手たる我々の心象風景を汚してしまうのでは興醒めである(例:ハイペリオンに対するエンディミオン。 その点、hollowでは各キャラによる新しいエピソードは日常モノ程度に抑えておき、過去についてはあくまで「あの時の想いを明かす」というレベルに留めているのが大変好印象で、かつ各キャラへの愛が深まる感じで楽しい。ま、端的にいうと葛木萌えということで一つ。

凛の時計塔後のエピソードが欲しいとか、士郎が英霊に堕ちる話が読みたいとかいう声はよく聞くし、如星自身にそういう欲求がないと言えば嘘になるけれど、やはりそれは「下手に語られてはいけない物語」じゃないかと思う。追加的後日談はファンにとっても甘美なれど屋下屋となる諸刃の剣、そういうのは同人の領域に任せておけばいいのです(笑)。ホロウの物語自体については次項で語るけど、その本筋の物語自体も敢えてメインキャラからは外した英断には拍手を送りたい。ま、奈須御大本人からすれば、英断というよりは贅肉作品書いてもつまらんという理由の可能性が高いのだけど:)

理由という貨幣

そんなサイドエピソードの中で、如星一番のお気に入りはやはり先刻吐露したように(笑)、葛木&キャスターの物語。恐らくFate編であろう葛木の最期は、本筋以外で一番泣けたシーンでありました。

奇跡は起きない。傷の治療も、肉体の蘇生も間に合わない。何一つ救えない。
魔女の役割は人を貶めるコトだけ。
人を治し死者を動かせても、純粋に人を助ける事だけは出来はしないのだ。
……きっと、今まで本気で誰かを助けようとしなかったから。
そのルールを、彼女は今の今まで知らなかった。

──“桃源の夢”, Fate/hollow ataraxia

本当、奈須世界は「ルール」というモノに厳しい。単純な等価交換とも違う、価値観の規律。そこが奈須世界の魔術の魅力でもあるし、またかつてUBW編で「他者による救いなど貨幣と同じ」とアーチャーに言わしめた、「誰かの為に」という行為の厳しさが、この二人の話にも、そして本筋のバゼットの話にもしっかりと練り込んである。自らの行動規範と取捨選択、というテーマは空の境界以来綿々と続いてきているテーマだけど、一向に使い古された感が出てこない辺りは流石だ。

イリヤかわいいよイリヤ

今回は傍観者だの、追加服が水着しかないだのと一見散々な扱いにも見えるイリヤだけど、いやいやこれがこれが。士郎と添い寝するエピソードは豪萌えにしてグッと涙に詰まる話だったし(あれ、絵馬では水着だけって言ってたけど、パジャマ姿って本編にもあったっけか……?)、本筋でも最後のアンリとの会話は、実に立派な狂言回し。「願いを叶える」という魔が殻を持っただけとは言え、そこにはキチンと意志があったのだと──それはイリヤ本人の話でもあるわけで。イリヤスキーとしてはこの辺の話を膨らませてみたいモンである。

あ、最後にイリヤざぶーん(何)でのたうち回ったという点は告白しておこう。うるさいやい、もとい三度のご飯よりもラヴなお兄ちゃんですみませんこの節操なし。

第四ルートの否定と一炊の夢

余談ではあるが、この「hollow」の4日間は本編の何ルートの後日談なのか、というネタをちまちま見かける。大聖杯ネタ等も登場するがHF編後とも思えない点から、士郎が獅子奮迅の働きをして全てを解決した、第四のスーパールート後ではないか、なんて意見も見かけたけれど、それは違うんじゃないかなー。

ホロウは「全ての可能性」の集合体であり、本編3ルート(+α?)の平行する記憶がごた混ぜになっている状態。その大元は凛のウィンチェスター事件ではないかという推測はさておき(笑)、その記憶は「4日間の外側」の過去で実際に起きたことである必要はないわけだ。

むしろ、逆にそのような「スーパールート」の後日談ではない、という示唆が作品中に多々ある。例えば、冒頭の柳洞寺で士郎が「サーヴァントが消え、故人は帰らず」と過去を振り返っている点。凛の「みんな揃ってるのって、いいわね」という陽炎のような笑顔。キャスターが慈しむ平穏な日々。つまり現実側ではサーヴァントの多くがいないのは当然としても、人間側にも還らぬ人が出ている、ということだろう。士郎/アンリ以外でも「カラクリ」を感じ取っているキャラは皆、これが一炊の夢なのだとも薄々気づいている模様である。

その極みが、セイバーを学校に案内するエピソード「Wish.」である。約束と願望の違い。いつか学校に転入してくればいい、という士郎の提案を、ただ笑顔で見送ったセイバー。

「そうでしょう? この、誰も失われていない理想郷で。
貴方だけは、失われたものに価値を見いだそうとしている」

「貴方も、多くの者も、それを批難するでしょう。ですが私は尊いと思う。
貴方は聖杯戦争を終わらせる。私が止めようと助けようと、結果はきっと変わらない」

──“Wish.”, Fate/hollow ataraxia

失われたモノを還してはならない──彼女が本編Fate編で出した答えは正しく受け継がれている、どんなに食欲大魔神のギャグキャラで再降臨しようと、セイバーはやはりセイバーなのだと改めて実感した珠玉の一コマ。これもグッと涙につまるお気に入りの一つである。……と同時に、ここから少なくとも「4日間の外側」は、セイバーのいない世界だろうと推測できる。UBW編の可能性もあるけど、個人的にはFate編であって欲しい──もしこの4日間をセイバーが最期の夢の続きとして眺めていられたのなら、それは何よりの幸せだと思う。……ま、感傷的な話だけど。

なおこの「一炊の夢」という物語感はhollowの主軸の一つであり如星好みの形なのだけど、一方でhollowという作品全体を通じて一つ不満に感じた数少ない点にも繋がっていたりする。それは次項にて後述。

ホロウという物語として

正直Fate本編よりもクリア後に余韻の残る、実に如星好みの物語でありました。

……とりあえず前項が長くなったので、後述予定にしてとりあえず一旦公開。

いずれにせよ、久々に如星のツボをクリーンヒットした佳作であり、なんとしてでも冬の原稿は間に合わせたい次第であります。……かなり苦しいんすがねー。ちまちまこの感想を更新しつつ、鋭意執筆中。

今日の一滴="−−−−" (2005/11/20)

【2005-11-21-月】

interlude

本文執筆以外の理由で今年はもうだめかも。腱鞘炎まで追加されている予感。

interlude II

それでもこなくそと頑張る。

今日の一滴="−−−−" (2005/11/21)

【2005-11-24-木】

ARIA & Amiamo Venezia

先日如星がmixiで主催しているヴェネツィアコミュ「ヴェネツィア・マニア」が700人突破。

コミュを立てた当初は、日本人ツアーには割とスルーされる方なヴェネツィア好きが少しでも集まれば……などと思っていたのに、予想以上にヴェネツィアファンは多かった模様。アルバムスレ等も順調に育ってよい感じです。とゆーか自分が他の人のヴェネツィア写真を見たくて立てたようなものだし:)

さてヴェネツィアといえば、天野こずえ「ARIA」が最近よく話に出るので、先月のことになるけど原作を一気に大人買いして読んでみた。……これはヴェネツィアファンから見ても、純粋な物語として見ても素晴らしい作品。端的に言えば「生きたヴェネツィアの空気」が紙面から漂ってくるようで、ある意味現在の観光都市・本物ヴェネツィアでも味わえない感覚が詰め込まれていた佳作でありました。

物語自体はゴンドリエーレ(ウンディーネ)を中心として、火星に再現されたヴェネツィアを舞台にしているのだけど、単に運河の街を舞台にしたというだけではなく、特に本来のヴェネツィアの街が持つ二つの空気、「ゆったりと流れる時間」と「街全体に漂う不思議な雰囲気」がARIA世界の主軸の背景になっているのだ。

そう、観光都市ではなく生活空間として、そして歴史の重みがある故の時間感覚が、ほんわかとしたARIAの作品と実に合う。作品で描かれる、表面的な観光では見えてこないその生活感は、当然現実のヴェネツィアとは違うだろうけれども、しかし「こうであって欲しい」というノスタルジーの再現になっていてツボを突く。まったりのんびり系の漫画は最近の流行りでもあるけれど、その舞台にヴェネツィアがこれほど合うとは思ってもみなかった:) またそこに味わいを加えるのが「不思議な雰囲気」。ヴェネツィアの街を歩いた人間なら誰しも感じる迷宮感、「地図にも載っていない場所」やら「猫の王国」を妄想してしまうファンタジックな雰囲気がキチンとストーリーに織り込まれているのである。

「火星に再現された街」という設定自体、ともすれば作り物的な、ハリボテのような舞台に堕しがちだけど、そこを敢えて「文化の再現」という方向に転化してる辺りが実に巧い。「保存で生きる街」という物悲しさも、100年も根付けば明るく変わるのかと言うように──6巻のヴェネツィアンガラスの話で、灯里が「本物か偽物かを決める事は問題じゃない」と言っているけれど、あれは別に偽物でも構わない、と言っているのではなく、そこに込められた魂が本物か、ということを問うているのだと思う。少なくともこの作品に込められた「ヴェネ魂」は、ヴェネマニヤの心を打つほどに本物であり、それがこの作品を「単なる最近の萌え漫画」から頭一つ抜け出ている所以だろう。ま、5巻のカフェ・フローリアンのエピソードで泣けるような人間は如星ぐらいだろうけどねぇ(笑)いやマジで涙出た。「世界でもっとも美しい広場」。響き渡る鐘楼の鐘。くー。

一方でそういう小難しい話でなくとも、たとえば姫屋邸宅がキチンとヴェネツィア建築だったり、瓦屋根の地平線の向こうに流星群を眺めたり、鉄柵で閉ざされた先の見えない極細の運河を覗いたりと言った、細かなヴェネツィアマニヤ欲を満たしてくれる面も盛りだくさんではあります:) ある意味聖マルコ大聖堂やらパラッツォ・デュカーレなんぞはあちこちの作品に顔を出すわけで、そういうマイナーなツボを押さえてくれる方が嬉しい。しかし作者さん本人は当初ヴェネツィアに行かずしてこの作品を描いたのだろうか? 一度でも行ったことがあれば間違えない点を一部外しているのだけど……もしそうだとしたら凄いモンである。いずれにせよ、ヴェネツィア感といい話作りといい、久々に良い作品を読ませてもらいました。迷わずお勧め。

ちなみに実はアニメの第一話の方を先に見たのだけど、こちらは正直ヴェネファンから見ると酷い出来だったし、原作を読んだ後から考えても、原作の空気が出てないな、という感じ。原作から滲み出ていた迷宮感、少し古びたヴェネツィアの街並みが、アニメでは澄んだ水面に白亜の建物群、真っ赤な屋根……。スペイン・アンダルシアかどっかと間違えていやしませんか。琵琶湖に似非スペイン風タウンハウスが並んでるように見えてしまいがっかり。純粋に作品として見ても、原作が積み上げたキャラ描写を一切省いていきなり「灯里節」を持ち出しても、妙に教条主義的に見えるだけだと思うんすがねぇ。

今日の一滴="−−−−" (2005/11/24)

【2005-11-27-日】

avenge night interlude

冬コミ発行予定本について。

色々各方面万策尽きた結果ではあるのですが(苦笑)、かろうじて冬コミ本の表紙カバーを先ほど入稿完了しました。……やたらと重厚なデザインになってしまいましたが、はてさて。なお全体的に黒基調のカバーなのですが、黒地に薄っすらと「違う黒」でアヴェちんの紋様を透かし込むという試みを盛り込んでみました。さぁ、こいつの再現には関美さまの印刷力に期待するところ大であります:)

今回の本のタイトルは感想日記とほぼ同じ、「Hollow/avenge night」。インフォメページを若干更新いたしました。……その感想日記の後半、ホロウ本題に関するネタは決してサボっているのではなく、表紙入稿を優先したためとお察しください!(笑) 毎度のことながら本文執筆は苦しんでおりますが、正直Fate本編よりも「如星寄り」の物語なので、気分は段違いにノリノリであります。

つか、壷nanoに突っ込んだ“last piece”のディストーションギターが入ってくるバージョンを耳にすると通勤車内であっても下手すると涙してしまう今日この頃。すさまじい刷り込み効果ですなー。

curtain raiser寸評

普段アニメには疎い如星だけど、Fateアニメのプロモーションたる「curtain raiser」を買ってみた。

原稿執筆の時期には毎度モチベーションをあげるために、ささやかでも原作系のインプットを増やそうとしているのはご愛嬌。確か夏前はhollowの記事が出ている雑誌を端から買っていた記憶がある(笑)

さておき、まぁ派手なパッケージとお値段の割に映像自体は短いモノだけど、とりあえず寸評など。あくまでアニメ視聴者ではなく、Fateファンとしての視点から。

最後に戦闘シーンの事を書いたけど、そういえばホロウの「決戦」シーンは異常なまでに熱い。Fate原作の戦闘シーンより熱いんじゃないだろうか(笑)。ホロウは全体的に戦闘効果音、BGMにも重厚さが増していて、これもプレイ感を高めている理由の一つかも。

今日の一滴="珈琲:南インド系インディアンコーヒー" (2005/11/27)

【2005-11-30-水】

レフトハンド・ソード

左手が腱鞘炎になってしまった。といってもまだ軽いものだけど。

もう半月前ぐらいからだろうか、左手が筋肉痛のような、手首の骨がずれててゴキゴキ回しても違和感が取れないような、そんな感覚がずっと続いてきたのだけど、まぁ捻ったか何かだと思ってしばらく放置。が、あまりに長く続いた上に段々と明確な痛みが手の甲や親指の付け根辺りにまで進出。痛みの「根」が手首より少し下った、肘と手首の中間辺りの内側だということもわかってきた。ウム、腱鞘炎である。

早めの処置が良いと聞いていたので仕方なく半休を取って整形外科に赴き、健康そうなジジババの一大喧騒社交会場で発狂しそうになりながら2時間待ち、最終的には「まぁ鎮痛剤と、後は自力マッサージ等でがんばりましょう」という有難いお言葉で終了。……ま、想定範囲内ですな。一応消炎効果のある湿布ももらい、後にこれが一番楽になるとわかったしね。何せキーボード大連打をやめられないシーズンだし(苦笑)

さて、左手を痛めてわかったことがいくつか、PC関連と日常関連にて。

まず、腱鞘炎状態だと痛みによって「普段タイピング時に何処に負荷が掛かってるのか」がわかる。んで気づいたのが、「キーボードでほぼ全ての操作をする」Windowsユーザーの左手に一番負荷が掛かるのが、各種ショートカットで多用する「左Alt」を押す親指である、ということ。自宅ではナチュラルキーボードを使ってるため、キーボードに乗っている手首は腕の角度とほぼ同一なのでさほど気にならないけど、ノートPCを使ってみると「既に水平方向外側に手首を曲げた状態(通常のタイピング状態)から親指を手のひらの下に曲げ込む」という動作は、手首下側の筋をかなり酷使する。手首はキーピッチが狭いほど強く曲げた状態でタイプすることになるので、ミニノートで普段仕事をしているというツケが見事に回ってきてしまったわけだ。うーん。

また日常生活で分かったのは、利き腕の動作って単純なように見えてもかなり最適化されてるんだな、ということ。痛むようになるまで普段認識してなかったのだけど、如星の利き腕はどうやら左のようなのだ(利き手である「右」は当然手先が仕事をしているので、両手を使う作業で物を支えたり等の力仕事が「左」の担当になるのは当たり前のことなんだけども)。ドアノブを回したり、鞄のストラップを肩に掛けたり、やかんのお湯をティーポットに注いだり等々。これらの動作を右腕でやろうとすると、左手で文字を書くに等しい凄い違和感を感じてしまう。

特に驚いたのが前述の「ティーポットにお湯を注ぐ」シーン。普段左手でやるこれを右手でやってみたのだけど、どうもお湯が注がれていく速度が遅い。冷めないように一気に傾けて注ぐのだけど、なかなか思った角度に傾けられないのだ。で、後から考えてみて理由に気が付いた。やかんの持ち手の位置が僅か1-2センチ違うだけ。当然、注ぎ口から遠ざけた方が傾けやすいのだけど、普段左でつかむ時には当然そんな細かいことをいちいち考えたりはしない。だが右手の場合、まさに逆手で箸を使うときのように、位置はここ、指を掛けるのはここと、頭で考えてやらねば同じにはならんのだなー、と気づいたわけだ。……いや当たり前のことかもしれないけど、人間経験してみないと実感にはならないものだし:)、また手指以外の大雑把に見える部位でも、人間結構細かい最適化を掛けてるモンだなぁ、と感心もした次第。つまり不自由の元を再認識させられるという現象でもあるのだが。

以上、オチなし。あえて挙げるならば、原稿で唯でさえ打ち物が多いにもかかわらず、現実逃避に日記を選んでしまうキーボード人間の悲しさよ、という辺りかな。合掌。そして左手痛っ。

今日の一滴="−−−−" (2005/11/30)


 
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