VERBA VOLANT, SCRIPTA MANENT.
閉鎖します、とか書いたらネタにならなそうだったので辞めました。
何より「笑えないと」意味ないっすよね。ホント。てゆーか最初からネタとして公開されてる嘘ニュースとか、いい加減同じネタを繰り返しまくって飽きられたオヤジギャグにしか見えなくなりつつあるんすが。座布団全部神田川に沈めてこいっつの(笑)。
今日の一滴="−−−−" (2005/04/01)
現地時間で2日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世聖下が帰天されたそうです。
後で真面目に思うところを書きます。今はただただ御冥福を祈るのみ。キリスト教に思うところがないわけではないですが、それでも以前書いたように、如星は故教皇を敬愛していましたから。
二十世紀を代表する偉大な人物だった、と思う。
以前書いたように、如星が故ヨハネ・パウロ2世を評価し、敬愛する理由は、「宗教を通じて現実社会の諸問題の解決に尽力した」という点に集約される。そして、聖下の個々の功績、物議を醸した問題については、今やあちこちで語られているのでここで解説したりはしないけど、その全ての源泉が、聖下の「目を背けない」という凄みにあったのではないだろうか。
宗教家が現実社会の問題から目を背けるのは簡単である。教皇が聖ピエトロ寺院の奥で「世界の平和を祈ります」などと呟きながら、教団内の政務にのみ従事していても不思議ではなかったはずなのだ。だが少なくともヨハネ・パウロ2世は、「ローマ教皇」の持つ可能性を見い出し、自分が経験した「悲劇」の記憶を元に、「為せることがあるなら成さねばならぬ」を言葉通り実行する人生を選んだ。実際、ほぼ一体化しているイタリアの影響から完全に自由なわけではないけれど、それでもヴァチカンが独立国家である事の意味は大きい。教皇は十億人の精神に影響を与えられる存在であり、と同時に主権国家の代表として独自の意志をもって国家間外交の場にも着ける存在なのだ(NGOだの何だのと言っても、やはり現代国際社会では主権国家にしかできない/許されない手段が多いのだから)。そしてヨハネ・パウロ2世は、巨大な宗教の長が現実社会に対して影響力を振るうことを、タブーとはしなかったのである。
こういった政治に深く関わる「教皇像」に如星が違和感を覚えないのは、それ以外で如星が知っている教皇といえば、ルネサンス史に登場する歴代の教皇、名実と共に教皇領の長として、政治的に生きることが当たり前だった彼らだからなのかもしれない。もちろん、聖務停止やら破門を振り回せた当時の教皇たちと違い、ヨハネ・パウロ2世が持ち得た武器、カトリックの力は昔に較べれば格段に小さい。宗教自体の影響力は格段に落ちているし、加えて現代の教皇が向かう「世界」は、もはやカトリックだけで閉じた小さなヨーロッパではない。さらにそのヨーロッパ自身、カトリックの影響力は下がる一方なのだから(ちなみに如星の滞米経験からして、今や欧州人よりも、よっぽどアメリカ人の方が信心深いと思う)。政治に関わる宗教家を快く思わない向きもあっただろうし、一方で所詮は宗教屋の片手事、自己満足と偽善と徒労に過ぎないと冷笑されることもあったのではないか。
それでも出来る事があるはずだ、と。決して目を逸らさず、そして見失わなかったのがヨハネ・パウロ2世の十字架の道だったように思う。一元的な「善」を定義することは不可能だし、キリスト教的な「善」を世界に押し付けることの愚も分かっていただろう。だがそれでも、「悪の回避」ならば、己の宗教と、そして諸宗教・諸思想・諸人種が共に目指せる可能性があったのではないかと、聖下は道を尽くしてこられたのではないか。聖下が若くして目の当たりにした戦争と人類の災厄は「悪」だったのだと、多様な善を求めるにしても、少なくとも、あの災厄の中に善はなかったのだ、と。
その目的があればこそ、カトリックの力が足らないならば、宗教にはまだできる事があるはずと、諸宗教と協力することも厭わない。自身の足元として、カトリック教徒が力強く存在する南米等に教皇の影響力がもっと強く及ぶように計らい、またその教義が悪の回避への良き道であることを信じ続け、布教する。教団・教義で足りない分は、国家元首としての存在と、そして何より教皇自らの人格そのものを外交の看板とすることで、宗教の壁を越えて平和を訴える。
───キリスト教には牧者という言葉があるというけれど、こうしてみれば、ヨハネ・パウロ2世は実に精力的な牧者、宣教師だったのだろうし、そして何より、本当に良い意味での「現実主義者」だったのではないかと思う。現実の社会に横たわる無数の問題、聖下自身の言葉を借りるならば「現代の十字架」を背負うために、ただ理想を唱えるだけではなく、現実にやれることを計算し、現実にやれるだけ尽くそうとした人生。偉大な宗教家にして、尊敬すべき現実主義者。 自分はキリスト教徒ではなく、感情的なファンに過ぎないことも分かっている。それでも、教皇ヨハネ・パウロ2世聖下、自分は聖下の歩んでこられた人生に純粋に感動し、そして尊敬する。ここに改めて聖下の冥福を祈ると共に、聖下が世界に蒔き続けた種を、一人でも多くの人が受け継ぎ、その胸で育てていけるよう願って止まない。
今日の一滴="−−−−" (2005/04/03)