VERBA VOLANT, SCRIPTA MANENT.
大河原遁「サルト・フィニート(7)」読了。
巧い。7巻まで続いてきてもネタ切れの感はまったくせず、如何に紳士服の世界が奥深いかを示している。またそれ以上に、その深い世界を物語に転化する業が見事で、単に薀蓄的な知識を披露して済ませるような漫画ではない。とにかく服を楽しむという描き方が、実に巧いなぁと思う辺りだ。
この作品でよく描かれているのが、「所以」というヤツである。今回のトレンチコートの話など特にそうだけど、服に歴史あり───どんな服であれ必ず身に纏う上での実用的な面を持つ以上、その形状を取るに至った起源があり、所以があり、それが歴史を生む。このサルト・フィニートで描かれている、「その所以を知った上で、今日それを着ることで生まれる楽しさ」というのは、他のあらゆる趣味に通じる話だと思う。
如星が好きな各種の酒にも、起源や逸話がある。しかし、それが単に酒飲みの場で披露される薀蓄であれば、別に薀蓄が酒を旨くするわけでもなく、どうということのない知識で終わってしまう。しかし、何故その酒がその土地で生まれ、どんな所以で成長し、今日まで飲み継がれて来たかに思いを馳せる事で、その酒の旨さ、いや旨さと言うのに語弊があるならば、その酒を飲むことで得られる時間の質がグッと上がるのだ。その所以の何か一つでも違っていれば、今自分が見ている形にはならず、手に取る事もなかったであろうモノ。それに出会えた「縁」を喜びつつ、しかしあくまで味わうのは「今」の味。 如星が惚れ抜いているヴェネツィアという街だって、その外観の美しさのみならず、何故この街がこの形を取り、何故ここまで残ることができたのかを知ることで、より深い魅力にはまっていったのである。 酒しかり、食い物しかり、街、車、建築、音楽、演劇、etc. 何かにのめり込んでいる「趣味人」がその由来を大切にするのは、一つにそんな理由があるのだと思う。
薀蓄として自慢する類の知識ではなく、縁(えにし)を確認し、今の魅力をより理解するための知識。服飾の世界でそれをたっぷりと感じさせてくれるこの作品は、服飾のみならず、あらゆる趣味人にとって、共感できる世界ではないだろうか。これからもますます期待。
今日の一滴="−−−−" (2005/08/03)
───J.P.ホーガン「仮想空間計画」(自分を人間だと思っているAIに向かってアイルランド系の高度なジョークを解説した後で)
「あなたがそうした関連性を全て繋ぎ合わせたとは信じられません。順列の数が多すぎて、全てを計算し尽くすことはできないはずです」
「君がコンピューターだったらできないだろうね。でも僕や君のような人間には簡単なことさ。違うかい?」
「どの関連性を拾うかどうやればわかるのですか」
「人生の経験からさ。君が冗談を話した相手が同じ関連性に気づいてだね、しかもどうやって気づいたか分からないとするとだ、たとえ違うところがたくさんあっても、自分たちが深くて神秘的なところで何か共通のものを持ってると分かるのさ」
「───一つの冗談だけで、それ全部が含まれてるんですか」
「もちろん。言い換えれば、君は宇宙で独りぼっちじゃないってことさ。そう思うのは随分気分がいいものさ。だから、笑うんだ。可笑しい事が可笑しいのは、もう一つにはそれが理由だね。ひょっとすると、それが一番大きい理由かもしれないな」
渡米という断絶を持つ如星にとっては最長の部類に属する、10年来の親友(女性)と半年以上ぶりの食事。汲めども尽きぬ会話は河岸を変えつつ5時間以上に及んだけれど、これも毎度のことではある:)
相手は異性であり、また純日本寄りな価値観をあちこちで持っているなど、如星とは視点も立場も全然違う相手との会話である。その異質な文化を交流するのが楽しい、というのはもちろんあるのだけど、やはり長年の友人関係が成立している所以は、それ以上に、お互いが何処か譲れない線に持っている考え方の方、いわゆる奥底の方にこそ、むしろ相通じるところがあるからなんだと思う。信念、というのともまた違う。思考様式、現実との戦い方、当てる物差しこそ違えど、物差し自体の当て方等々、それは「何か深くて神秘的なところ」
としか言いようがないモノかもしれない。
彼女との対話に限らず、如星が他人との会話を楽しむのは、相手の中に一点でも、何処かで自分と繋がっていると思わせるものを見つけた時に他ならない。それは趣味とか主義主張とか、そういうわかり易い表面的な事象のことももちろんあるけれど、そういう面ではまったく異質にも関わらず何か自分と響きあう弦を見つけられた時の方が、元々如星が異質な価値観との接触を好む面もあって、会話の楽しさはより増しているように思うのだ。
そんな時に思い出すのが、冒頭の引用文である。如星が諧謔やネタの効いた台詞を好むのは、まさにそういう言葉が、お互いに響きあう弦を持っているが故に成り立つモノだからだろう。───俺たちは、何処かで繋がっている。それを幻想だとか、意図的な誤解に基づく自己愛の投影だとか、そう片付けるのは簡単なのだけど、自分が誰かに響きあうモノを見つけた時の手応えは、そんなつまらない意図だけで成り立ってるとは思えない。自分の側の思い込みだけでは、絶対に得られない手応えだと思うのだ。
今日の一滴="−−−−" (2005/08/04)
久しぶりに会社帰りにマリアージュ・フレール@銀座に寄る。以前ちょっと店頭で嗅がせてもらい、実際に淹れたときの香りがずっと気になっていたお茶があり、サロンに寄って飲んでいける日を待っていたのである:)
その紅茶の名は、テ・オ・チベット。ここしばらく何かのフェアで店頭でサンプルを置いていたお茶の一つで、その特徴的な香りが、以前如星が好きだったが消えてしまった紅茶、Cafe Ninasに置いてあったベッシュマン&バートンの紅茶「テ・デ・アンジュ(tea of angel)」にそっくりだったのだ。
銀座本店の馴染みの店員さんとも話したのだけど、曰く「フランス人が好むフレーバー」。……ええ、裏の意味はすぐ分かりますとも。要するに「日本人にはあまり受けない香り」なのである。西洋系の癖のある蜂蜜を燻したような、あるいは薬草リキュールのような香りというか。「サンタ・マリア・ノヴェッラ系」という言葉が浮かんできたけれど、ああいった何層にも重ねたハーブのような香りは、紅茶以外でもあまり日本人には馴染みがない。先の「テ・デ・アンジュ」も同種の香りだったのだけど、ベッシュマン&バートンのラインナップ全体が日本向けを狙ったのか一新されてしまい、どれもこれも似たようなベリー系の「女性受けする」フレーバーに変わってしまったのである。(つーかお茶の名前を変えずに中身のフレーバーを変えるのはやめて欲しかったなぁ。名前買いしたら中身が変わってて騙された事が……)
実際に銀座のサロンで飲んでみると、やはり往年のテ・デ・アンジュそのものの香り。マリアージュのフレーバーとしては当然だけど、茶葉の腰がしっかりしていて香りに負けてないのも良い。また試しにミルクを入れてみても、渋み部分が消える代わりに薬草風の香りが引き立ち、知らない人に黙って飲ませたら薬湯か何かと間違えるかもしれない(褒めてます)。前述のように決して万人受けするものではないけれど、店頭で茶葉の香りを嗅いでみて、何か惹かれるような、安らぐような気分を覚えた人にはお勧めです:)
今日の一滴="紅茶:テ・オ・チベット(マリアージュフレール)" (2005/08/05)