個人メディア、分散系メディアの存在は面白いし、その存在意義についても割と楽観的に期待している。2chに代表されるような匿名掲示板とか、相互リンク系ツールとかね。ま、技術屋が社会を語るような鼻持ちならない発言は避けたいところだけど。
しかしそれはそれ、個人の情報処理能力は今後さらに必要とされてくるわけで。全て分かってて自己判断してる人々や、煽りを使命としてる人々はいいんだけどさ、「私もそう思います」的発言を繰り返す連中が「マスコミは嘘つき、ネットマンセー」で思考停止している様は非常に気持ち悪い。踊らされる笛の吹き手がマスコミから2chに変わっただけだとすれば救いようがないだろう。ま、幼稚園以来左脳の発達を止めちゃったような連中の頭蓋骨の中身が急速に埋まるワケはないのだけど。
嗚呼、「嘘を嘘と見抜ける人で無いと(略)」という台詞は本当に名台詞であったのだ。
自宅PCのメインディスクを流行りのSerialATAにしてみますた。
以前PCをアップグレードした際、メモリを1GBにして非常に快適になったのは良いのだけど、休止状態を利用するための一時ファイルも1GBになってしまい、システムディスクが満杯ギリギリになってしまっていた。休止状態運用が必須の如星環境、それでは困るとゆーことで、プログラムファイルや一時領域等を、マウントポイントやハードリンクを駆使して別ドライブに移し、かろうじて200MBぐらいの空きは確保してたけど、心もとないことこの上ない。昔3GB程度で切ったパーティションのままで来たからねぇ……。
最近ディスクは大容量化してるけど、基本的にシステムが入ったディスクとゆーのは常にフォーマット・リプレース・クラッシュの対象になるので、あまりサイズを大きくしたり、後ろのデータ領域と合わせたくないという、今となっては古い概念で(苦笑)如星はマシンを構築しているのである。ま、それが裏目に出て、全ディスクを合わせると空き容量は100GBを超えるというのに、メインディスクの空き容量で苦しむことになってしまったわけだ。
Win9x時代と違って、メインディスク移転時のOS丸写しは非常に面倒い。めんどいとゆーか、ノウハウの蓄積をサボっていたので実行できるかヴィミョウという点も否めない。が、この空き容量問題を機会に、ノウハウ蓄積も兼ねて「パーティションサイズを変えつつ丸ごとコピー」を実践してみました。結局ツールが必要になってしまい、DriveCopyちうのをゲットする羽目になったけど。
が、妙な色気を出してコピーしたが故にハマってしまいました。何にハマったかは待て次号。
……しかし、やっぱりトラブルでノウハウが蓄積されるのも、また真実でした。結論から言うと、Win9xの起動ディスク+fdiskを用意しとけ、とゆーことなのですが:) 待て待て次号。
Summary="−−−−" Physical:-- (2003/10/11)
先日はまったトラブルのメモ。あちこち誤解を含んでいる可能性あり。
DriveCopy等のディスクコピーツールを利用してWindows2000系のシステムディスクをコピーした際、新ディスクで起動するとログイン画面までは行くものの、ログインしようとするとログイン画面に戻ってしまう。
ドライブレターの管理に失敗している。具体的には、Cドライブであがることを想定されたWindowsが、別のドライブレターであがっており、かつ、旧Winntフォルダを含む元Cドライブが、ドライブレターCでアクセスできない(外れている、レターが変わっている)。
NT系Windowsは、ドライブのMBRのドライブ署名(シグネチャ)を利用してドライブレターを記憶している。よって、最初はIDEの接続順に振られても、ディスクの管理等でレターを移動していれば、接続場所を変えても(マスタ→スレーブ等)記憶される。
このため、ツールによってドライブの完全コピーを行っても、MBR内は書き換えられないため、コピー元の旧ディスクを繋いだままコピー先の新ディスクからOSを起動すると、新ディスクには空いているドライブレターが振られ、旧ディスクはCドライブのまま、OSは新旧双方のファイルを混ぜこぜに使いながら上がるという奇妙な形態となる。
この状態で、Cドライブを空ければ新ドライブにCが振られるだろうと踏んで旧ドライブのレターをCから変更すると、新ドライブには初回起動時に別のレターが振られたまま残っているため、結果としてCドライブ不在となり、OSがログイン画面までしか上がらなくなる。
リモートからレジストリにアクセスし、新ドライブのレターをCに振りなおす。別途リモートレジストリの利用法について参照のこと。ただし、リモートレジストリは危険だという判断でサービスを停止していると、もちろんリモートからの書き換えは不可能である。
新ディスクのMBRに書き込まれたドライブシグネチャをクリアする。これにより、新ドライブには「もっとも若い空いているレター」すなわちCが振られ、起動するようになる。
シグネチャのクリアでもっとも手早い方法は、fdisk.exeの入ったWin9x系の起動ディスクを用意し、ここから起動して該当ドライブに fdisk /mbr を掛けること。誤爆を防ぐため、旧ディスクや他ディスク等は物理的に外しておく事を推奨する。
つーか、まぁこんな基礎的なことも知らずに過ごして来てしまった自分反省、ってトコっすな。途中で一度「変な状態」で上がったときに、ついつい昔の癖で「どうせ連番で振られるんだろう」とCドライブレターを変えてしまったのが最大の敗因であった。おかげで1時間作業程度を見込んでた換装作業が、原因究明も含めて半日掛かっちまった……_| ̄|〇
ま、その代わり戦訓が得られたからいいんだけどね。
Summary="−−−−" Physical:-- (2003/10/12)
色んな意味で復活中。日記の追記更新などなど。
こすちゃの撮影会というのに行ってきました。そこ、今更「うーわ」とか言うな(笑)
まぁあまりコスプレの撮影会なんて見たことなかったし、日頃サービングしてくれてお気に入りのWRさんがいるってことで、何事も経験と出てみたのでありました。……結果、あの小さな店の小さなイベントでも、しっかりとカメコはん──非常にカコイイ方から、その、まぁ、大きめの方まで──が揃っていたので、内心ちょっとヒキ気味ではあったけど。
イベント自体については、まぁ諸所Webでも突付いてくれ給え。それとは別に、雑感をつらつらと。
なんとゆーかね、可愛いおにゃのこを見て癒される、ってのをちょいと実感してしまった。こと最近、自分の仕事の意味なども考えてしまったりと鬱気味だったところを、笑顔で癒されてしまった感じである。「なんじゃそりゃこのオヤジめ」というツッコミもあるだろうけど、実は如星にとっては奇妙かつ新鮮な感覚をもたらしもしたのである。いやホントだって(笑)。
あの場所にいたWRさん達は、皆さん普通に(さも呼吸するかのように、の意)かあいくて眺めてるだけでも幸せだったのだけど、よくよく考えてみれば、「笑顔を浮かべている」というのがもう一つのキーポイントなのでは、と気が付いた。それこそ文字通り、わけ隔てなく、例え
無論、立場が一介のアルバイトさんであろうと、それが彼女らの仕事である、と言うこともできる。また日頃レイヤーとして活動してる人も多いようだから、好きでやってる面もあるだろうし、撮られ慣れてるってのもあるだろう。しかし、その笑顔に繕いがないなど信じるほど、想像力に欠落しちゃいない。そりゃ、本心ではない笑顔を浮かべて生きていくってのは、どんな接客業でも同じである。いや接客業に限らず、俺たちだって誰だって、
笑顔によって、直接的に他者を癒せる「仕事」。以前Serieやプレチェのシェフにも感じたように、直接誰かに「喜び」を与えられる職業は尊いと思う。自分と同世代、あるいは年下でありながら、そこに従事しているという彼女らがいる。そこに俺は敬意を抱くし、自分ばかりが萎えていてもしょーがないなぁ、などとも思ったのだ。所詮は自己愛の投影かもしれないけど、一つの笑顔がそれだけの意味を持ち、それゆえに励まされ、癒される──ま、そういうのもアリだと思うのですよ。
……うーん、理屈っぽくてスマソ。素直に「萌えている」とでも書けちうツッコミもあろうが、ネタ系日記書きなんてそんなもんです(苦笑)。
癒し、という言葉が嫌いな(癒されたい≒俺は傷ついている、という被害妄想の現れのようで)俺が「癒される」などという台詞を使ってしまうとわ。弱ってるんかなー。
あるいは、単に脳味噌湧いてるかだ。
Summary="それでも一応回復基調の起点" Physical:88 (2003/10/15)
どんな趣味の世界においても、その極みの近くに位置するモノは、その趣味世界の経験を積んでいなければ真価を理解することは難しいようだ。これは経験則的に納得できると思う、例えば酒や茶とか車とか、あるいは旅行とかもそうだし、またあらゆるヲタク趣味はまさに当てはまる。良い物は万人に分かる、というのは一面の真実かも知れないが、良いと感じるのと真価を理解するのは別物である。素養がなければ、ガラスでもダイヤモンドでも等しく綺麗に見えるモノだ。
「金を掛けなきゃ満足できないなんて、俺はシンプルな好みのままでいるほうが幸せだ」という台詞をたまに耳にするけど、それは「無知は幸福」という、(時には抗いがたい)議題を別の言葉で言ったに過ぎない。それは生きていく意味を否定してしまいそうだし、何より自分が知覚しうる快楽があるのであれば、それを知らないまま過ごしてしまうのはもったいないじゃあないッスか:)
それに意外と、趣味を極めた人が金ばかり積んでいるかというとそうでもない。そんな趣味の極みに行き着く頃には、趣味の無数の要素、いわゆる雑味なども感知、堪能できるようになっていたりする。紅茶飲みはリプトンのティーバッグをそれなりに美味しく飲む方法を知っていたりするし、同人誌マニヤはマイナージャンルの粗雑コピ本に愛を見出したりする───上に昇れば裾野も広がるのは道理で、「趣味は行き着くと周縁部に(も)辿りつく」、という言葉がそれを端的に表しているのだ。
──ウィリアム・フォレスター、「小説家を見つけたら」よりタイムズ紙はディナーだ。だがナショナルエンクワイアーはデザートさ
で、上の話を、本日某所で「サロン'90の開栓会」に参加してきたのだけど、という話に繋げたかったのだ:)
サロン、というのは有名なヴィンテージ・シャンパンで、本当の当たり年にしか生産されない、文字通りの極み酒。そのサロンの中でも更に当たりという1990年モノは、「ドンペリが水に思える」と言った人がいるとかいないとか。……ってこの辺は全部受け売り。ま、当然お値段の張るシロモノ、一本豪気にポンと空けられるお大尽はともかく、普通の価格帯のバーとかだとなかなか出すことも難しいらしい。そこで最初から人を集めておいて、グラスという形で出してしまおうという粋なイベントを某Stone様が企画してくださったのである。
……が、酒好きの如星、実はワイン系にだけは滅法弱い。嫌いとかではなく、体質なのか一杯で恐ろしく酔ってしまうのである。酔ってしまうということは数が飲めないということで、特に旨い酒はボトルで提供されるというワインの性質上、あまり「飲み込む」チャンスは持てないで来たのだ。そんな如星が今回教育の一環として(ぇ)飲ませてもらうコトになった結果。──うん、確かに旨い。他のシャンパンと比べても非常に「味が濃い」のが分かる。「クセがある」と言ってもよく、逆に万人受けしないかもしれない……ま、俺は好きだけどねん。別の酒で鍛えられてるおかげかな。
で、堪能はしたんだけど、やっぱり「果たして俺が飲んでよいものだったのか……」という疑問は残った。つまり、こういう機会でもなければ、例えば一本分の値段を払うだけの価値程には旨さを感じなかったのである。こりゃ決して「大したことない」という意味ではなく、つまりは俺の研鑚が低いのだろうなー、ということだ。ううむもったいない。
ま、一方で「初心者を落とすには本当にいい物から入らせた方が高効率」というのも真実なわけで、無駄なのかと言われると難しいところだ。何はともあれ、かくて俺は効率よく教育され始めているわけでありますがね:)
Summary="−−−−" Physical:-- (2003/10/16)
─教皇ヨハネ・パウロII世「孤独だけは、誰からも奪われない」
現教皇ヨハネ・パウロII世(ラテン語読みならヨアネス・パウルスと言うべきか?)、在位25周年だとか。
如星は今時の感覚らしく、宗教というモノがあまり好きではない。ことキリスト教に関しては、歴史の観点から見るならば、むしろ救済よりも害毒を垂れ流した要素の方が大きい。また現代に至っては、どうも宗教の皮を被った怪しげな連中が多くて困る。(つか、いい加減宗教法人非課税などという歴史的理由に基づく戯言はやめればいいと思うのだが)
しかし、宗教的信念に基づいて行動する人には、現代に至っても、確かに尊敬に値する人というのが存在するのも事実だ。いい意味で、ようやく政教分離が建前から現実に移行してきた現代になって、よーやく宗教の「善きもの」が現れやすくなったのかもしれないし。
そんな中でも、実は俺は教皇ヨハネ・パウロII世が好きだったりする。彼は戦争の瓦礫の中から人生を立ち上げた人物であり、宗教を通じて現実社会の諸問題の解決に尽力してきた教皇である。上に引用した台詞を呟くような孤独な背景も相まって、俺は素直に現教皇を尊敬してるのだ。本質的にキリスト教は好きではないけれど、その中でも最も「現実的」に「人の弱さ」を直視してきたカトリックの頂点ということも、親近感を覚える理由かもしれない:) 何より、自分が狙撃されて死にかけて、ベッドからのコメントが「狙撃者を赦す」ですぜ? そりゃキリスト教は「赦し」の宗教だし、教皇という立場が作った台詞かもしれないけど、その建前を教皇が即座に表明したと知ったとき、なんちゅーか、「かっ、勝てない(謎)」と思ったのでありますよ。
現実社会、国際政治の場においては、持てる力の全てを効率よく問題の解決にあてるコトこそが求められる(道義云々は問題ではない)。教皇というのは六億人の精神に影響力をもち、かつカトリックは諸宗教において唯一「独立国家」の建前を持つ存在である。であるならば、教皇が国際社会の諸問題に真っ向取り組んでいく──ヨハネ・パウロII世の言葉で言うならば、現代の十字架を背負う──コトは、まったく正しい方向だと思うのだ。
ま、そんな心境があるからこそ、俺は昨年、ヴァチカン広場に米粒のような生教皇を見に行った訳でありますが:)
Summary="−−−−" Physical:-- (2003/10/17)
ここ1−2ヶ月、読書といえば手持ちの再読(塩野七生「ローマ人の物語」等)や、昔借りた本を自分で手に入れて(佐藤大輔「征途」等)読むのを続けてきました。何度も読むと頭ん中で熟成しますし;)
が、ここ1週間、amazonの1-clickなどとゆー巨悪に騙され続け、五月雨式に新しい本が届いてしまっている状態のため、これからしばらくは新たなる活字の摂取で過ごせそうです。ちなみに納期にばらつきが合って個別配送なので、写ってるのからまだまだ届きます。まったくひどい商売ですamazon。むふー、幸せ。
特に右端のグラッパ・ディ・サシカイアは、前々から置きたかったけどそこらの酒屋では見つからなかったシロモノなので、喜びもひとしお。ちなみに八重洲地下街の酒屋で見つけました。
最近は自宅にこんな酒に加え、ユーロアールで入れてくるチーズや、RO的ギルメンのアル師に沖縄で買ってきてもらった豆腐よう等、旨いつまみも揃っちゃってるのが大変よろしくありませんな。むふー、幸せ。
Summary="−−−−" Physical:-- (2003/10/18)