VERBA VOLANT, SCRIPTA MANENT.

如星的茶葉暮らし

■ 08月下旬 ■

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酒の一滴は血の一滴。茶の一滴は心の一滴。ネタの一滴は人生の発露。


 

【2007-08-21-火】

イラスト系同人誌の購入傾向

ここ数年、ただイラストだけが綺麗という本には全然興味が湧かない。特に最近のギャルゲ絵の系譜を引く絵柄は、そこに並みならぬ労力、表そうとしている独自性があることを知りつつも、ある意味逆に整いすぎているからか、量産された「萌え産業の製品」に見えてしまうのだ。……あ、このことは、別にそういった絵師さんを貶める意図はまるでない。その絵柄は昨今のトレンドであり、求められているものであり、また実際眺めていて心地よくはあるのだし。ただ如星の好みとして、それらを手元に置くほどではないな、ということ。余りに「ニーズに応じて」類似絵柄で量産されすぎてるのが不幸なのかもしれない。

さておき、ここから導き出される如星の「イラスト系同人誌」の購入傾向は二つ。

一つは、やはりイラスト+漫画を追うタイプ。どんなに絵が綺麗でも、単なるイラスト集には滅多に食指が動かないので。有名どころで言えば、例えばchronologの桜沢いづみさん辺り、あれだけピンのイラストレータとして人気があろうとも、毎度イベントには己の萌えを叩き付けた「漫画」を描いてくるところが素敵だなぁと思う次第なのだ。後は大手で言えばRengaworksなど……あそこは漫画もそうだけど、本作りの一発企画モノなどの(本当にいい意味での)馬鹿っぽさ、突き抜けっぷりが楽しい感じだが:)

もう一つは、絵柄だけで世界を構成し得るか、あるいはそのイラスト集を貫くコンセプト、企画が面白いモノになる。ただ、やはりスタンダードなギャルゲ絵の系譜には余り惹かれない模様。純粋なイラスト集でも手を伸ばしてる所を改めて並べてみると、うみねこ東京大陸さんなど、ティア系を中心に「独自の世界観」を構築しているところが多い。拙作小説に表紙を寄稿いただいたSHIN's Factoryのしんきちさんや、るろおさんもまさにこのタイプ(惚れ込んだ絵師さんに描いていただけるのは本当に感謝感激)。コンセプト的&時折の漫画が楽しくて手を伸ばすのはCLOSET CHILD辺りかな。あ、やはりここもティア出身か……。特定のサークルというわけじゃないけど、ヘッドホン本や兵器擬人化本なんかもこの範疇かな。

ところで、絵の綺麗さ、独自の世界観、漫画としての力、その辺りを全て兼ね備えてる恐ろしいサークルさんも存在する。……というわけで実はここまでは前置きで、今日はそんな如星の愛するサークルさんの一つ、す茶らか本舗さんを僭越ながらレビューしてみようと思う。

同人誌:す茶らか本舗の観用少女たち

手にするだけで顔が思わず綻んでしまう、如星にとって「毎回珠玉」ともいえる同人誌。す茶らか本舗・大槻弘子さんの同人誌には、そんな言葉を捧げたい。古くマルチやナデシコの頃から如星が今も追い続けており、その頃からまったく色褪せない魅力を持ち続けている稀有なサークルさんなのだ。

絵柄と色彩感覚

書影を見ての通り、いわゆる今風のギャルゲ絵柄ではない。どちらかといえばクラシカルな少女漫画の系譜を引いた絵柄に水彩風の塗りだが、そこにデジタル塗り特有の瞳やグラデーションを組み合わせて独自の世界を作っている。

特徴的なのはその独特の色彩感覚で、原作の色をざくっと捨てて全体を青や緑などの挑戦的な色で統一して見せたり、そこの書影のように元白薔薇様にピンクを背負わせ、髪先のグラデにまでその色合いを溶かし込んでみたりと、何と言うか、PCの画面、RGB光での観賞を前提とした昨今のギャルゲ絵とはまったく異質な塗りが広がっているのだ。

この方、以前日記で「すごくRGBな色になってしまうので戸惑うこともあります。えぐいな!」という台詞を残されているのだが──多分、その頭の中の色彩感覚や色空間はRGBはおろか印刷物のCMYKですらなく、水彩やコピックの頃から培われた独特の領域を持ってるんじゃなかろーか。アナログ絵描きから入った方からすれば当たり前の感覚なのかもしれないけど、いわばRGB世代の申し子として育った如星なんかには「世界観の反転」みたいな感じがして、先の台詞もとても楽しかったのを覚えている。自分とは異なる視点が開陳される瞬間って、やっぱり面白いねえ。

デザインセンス

そのイラストだけでもピンで立ち得るのだが、更にずば抜けているのがデザインセンスなのだ。毎回イラストを飾るロゴやレタリング、飾り罫線のデザイン、余白や縁線の取り方などなど。このタイトル入れのセンスは何とか真似してみたいなぁと、自分の小説本の表紙を作るたびに毎度思わされるのだが(現実には無理無理無理ィィィィ!)

本文のモノクロページでもそのスキルはバリバリ生かされていて、罫線とレタリングで絶妙にデザインされた後書きや解説のページは、それだけで見惚れてしまう。また黒ベタや白背景など、余白、何も無い空間の使い方が本当に巧く、漫画としての演出効果も抜群なのだ。多分その感覚に自信があるからだろう、例えばカラーページで8割方真っ白!なんて作りも全然恐れずに使ってくる。それで本当に成功してるんだから恐ろしい。

実際、イラストやページのレイアウトのみならず、トータルとしての本の造りもとても巧い。表紙から後書きを挟む位置、最後のエピソードの構成など、「体裁や構成まで高品質な小説本」を目指す如星としては、常に見上げ、お手本とさせてもらっている存在なのだ。

ストーリーテリング

最近はマリみてが中心だが、そのストーリーは毎回グッと胸を詰まらせる、甘く、ほろ苦い少女たちの機微が溢れている。甘く想いあっているのに、何処か哀しげな少女たち。──ナデシコのルリの頃からマリみてに至るまで、よく「観用少女」をモチーフにした物語を描かれているのだけど、プランツという持ち主の愛を鏡のように反す、特に皮肉なまでに残酷な想いの形が、それぞれの原作の雰囲気と絶妙に合ってるのだよねぇ、これが。

基本的に、大きなイベントは起こさない。日々の会話の中にキャラの心情を織り込んで、ただその会話の中に緩やかな起承転結を描く手法。アンチ・イベント・ドリブンとでも呼べるこの描き方は、先日も書いた「女性の描く同人誌」の好例、その極みの一つと言っていい。そして話が緩くオチるかオチないかといった曖昧さを描いた上で、最後にキリッと引き締める「一言」を持ってくるのが巧いんだなー。余談だが、このラストワードというやり方に惚れ込んだが故に、如星は君望の頃からこの手法を小説で再現しようと試みてたりもするのだ(一度、拙作もお読み返しあれ!)

と、いうわけで。この器にしてこの中身、これはもう惚れ込まずにはいられない。気がつけばもう10年近く追い続けている、毎回珠玉の同人誌なのだ。未読の方、次回以降のイベントで見かけたら是非ご一読を。あと、これから同人表紙のデザインをしてみようとか考えてる人がいたら、絶対に数冊押さえて参考にしたほうがいいと断言できますよ:)

今日の一滴="−−−−" (2007/08/21)

【2007-08-23-木】

秒速5センチメートルの長い長い感想

新海誠「秒速5センチメートル」をよーやく観賞。ま、劇場で見ないのも正解だったかな、といったところ。これは別に否定的な評ではなく、相変わらずの彼の画風はくっきりとしたディスプレイで間近に見たほうが楽しいのが一つ、観劇直後にちょっと見返したくなるような箇所があったのが一つ。これが大感動の作品であれば、映画館で一切外界から遮断された状態で観賞、誰憚りなく泣くというのもアリだったのだけど。

総評は、えーと。「ピュアに妄想するのはいつだって男のほう」あるいは「見果てぬ夢を見てしまうと普通は不幸になる」という身も蓋も無いオハナシなので、どちらかと言えば個々のシーンの美しさを堪能する作品かな。美しさとは別に映像美というだけでなく、シチュとしての綺麗さを含んだカット毎の美、というか。全体のストーリーは、何と言うか福井晴敏を思い出させる──中身がではなく、持ち味が微妙なマンネリズムを生んでいる、という辺りが(参照)。第2話辺りではちょっと期待が掛かったのだけど、第3話でどっちらけてしまったしなー。

以下、各話ごとに軽く印象など。

桜花抄

一番見応えがある話はこれだろう。尺も一番長いし、世評も一番良いみたい。

ただ、物語としては本当に「良くあるテンプレ話」の域を出ていない。だがテンプレであるが故に、個々のキャラの動きや、背景を通じた空気、台詞回しに篭められた背景画像を支える情景描写などが綺麗に楽しめる。……というか、良くある話に美しい映像と美しい音楽と目を引く小道具を揃えると、これだけ魅力的になるモノかと驚くほどだ。過ぎ行く時間の中で涙をこらえる貴樹のシーンなど、「情景」という存在を「画・音・音楽・台詞・シチュ」の全てを駆使して描き出すのが本当に巧いなぁと思う。特に台詞の使い方は小説的な技法にとても近いものを感じるのよね。

コスモナウト

個人的には一番好きー。思い込みと妄想と決め付けだけで恋したりストーカーしたり意味の無い賭けをしてみたり突然泣いてみたりする危ない女の子とか、あまりに遠くで目が焦点を結び過ぎて現世の幸福が見えなくなっちゃったり、暗闇を突き進む孤高の姿に憧れたり宛のないメールを書く自分に酔っちゃったりする危ない男の子とか、もう大好き。超好き。

……という冗談のようで真面目な印象はさておき、物語としては、彼がある種の劇的な別離を経験してしまったが故の「呪い」に囚われてる様はかなり(残酷な意味で)楽しい。この時点で既に妄想の中にしかいない少女の姿しか追ってないし。そんな「もはや誰をも見ない人」に惚れ込むという袋小路にハマった、言わば巻き込まれ型の飛びっきり不幸な彼女も(嗚呼残酷な意味で)やっぱり面白い。振り返らない相手って、永遠に恋していられるからとても危険なのよね。

二人とも、例えそれが事実を偶然突いていたとしても、思い込みだけで自分の周囲の環境を自己完結させて納得してしまってる辺りはとても青臭くて、理想論的で、そんなひたすら内向きの精神の描写が実に巧い。もしこれを「綺麗なモノ」として尊ぶならば、現実の恋愛など一生涯しない方がよさげだ。俺はもちろん、この模造品の宝石みたいな心の在り方には唾を吐く──このムカムカする感じを含めて、そういう感情を惹起させる力を含めて、この話が一番好きというわけだ。

秒速5センチメートル

作者、逃げたなー、というのが率直な感想。

桜花抄で典型ながらも美を描き、コスモナウトでその裏側にある闇を描いたのに、貴樹が囚われた狂気を正面から描くことなく、狂気の果ての顛末だけを投げ出しちゃったな、というか。あ、この音楽のPVめいた短カットの連続で描写していく、という手法を批判してるんじゃないので念の為。顛末の描き方としちゃ、こいつは十分にアリだと思うから。そうではなく、何故彼の闇が光明という出口を失ったのか、どうして永遠の薄闇という出口しかなくなったのか、相対速度は何処で殺しきれなくなったのか、その辺りの描写を省いてオチだけ提示するのはちょっとなぁ、というところ。

もう一つ、グッとくるシーン、涙を誘うシーンは、盛り上げる音楽とそれっぽいシチュと綺麗な映像を組み合わせれば(それ自体には技量が必要だが)物語に関係なく作れてしまう。この第3話、ちょっとそういう方向に逃げたかな、という気がしている。二重の逃げというか、前段の逃げを打つためにはそれ以外で魅せなきゃいけないから当然ではあるのだけど。

おまけ:遠野貴樹君考察

宛ての無い夢を抱くのは、ほどほどに。

結局のところ、彼はもはや「現実にはいない彼女」を「護るために何処か遠くへ」という、現実の宛先が無い夢/目標を抱いて歩き出してしまったのが運の尽きか──いや、後述するように運だけではなく彼自身の責任なのだが。そしてふと気がつけば、その挙句には何も残らなかった、というのがこの物語の終着点だ。最終話で微妙に綺麗に描いてみせてはいるけど、表面的な綺麗さを取っ払うと要はそういうことになる。

桜花抄にある「手紙から想像するアカリは、いつも独りだった」という一文が、彼が自分自身を宛て無き英雄に奉り立てて行く全ての大元になっているのだろう。あいつには僕が、あいつには僕しかという誇らしげな中学生の想い。孤独な彼女を救うという、その崇高な願いを一瞬叶えてしまったかのように錯覚させた、自分ひとりの内側で完結した冒険の果ての、束の間の邂逅(桜花抄)。英雄たれという呪いを掛けられるには十分すぎる出来事だ。

現実に彼女が孤独だったかは分からないし、最終話では孤独であり続けたのは彼の側だけだったと分かるのだが──それにしても、この時の邂逅で救われたのは一体どっちだろうか。確かに、報われたのは彼女のほうだと思う。でも救われたのは彼だ。キチンと別離前に行動を起こし、その後も線を繋ぎ続けた彼女の想いはあの瞬間に報われたけど、一方、電話で拒絶し、何もせず別れ、その罪悪感という「伝えなきゃ行けない事」を抱えて電車に乗った彼を、待っていた事で救ったのは彼女の方である。だってアンリの言うとおり、同情で人は救えないのだ。

もうこの時点で、貴樹には明里に手を伸ばす力は無かったのだろう。手を伸ばせたのは、あくまで明里の方だった。たとえこの邂逅が無くても、明里は万事を尽くした後なので「振られたんだ」と事象を過去化できるし、この邂逅を経ても、彼女に残ったのは一つの報われた想いだけであって、その後の彼女の人生に対する救いなどではない。一方この邂逅が無ければ、貴樹は「裏切った」という思いを永劫過去化できない。この邂逅を経て、彼は罪悪感を無にし、再び「護るべき存在」という生きる意味に転化させることができた。……その生きる意味が、完全に新しい「呪い」になったのは皮肉ではあるが、それは以後の彼自身が招いた結果に過ぎない。この時点では確かに、明里は貴樹を救ったのである。

結局その後、彼はその呪いを払えないまま人生を送った。自分で作り上げた英雄という鏡の檻に引き篭もり続けた。彼の周りには、いつだって十分すぎるほどの幸福の種が転がっていたのに、今を楽しむことと、未来へと歩くことは両立できたはずなのに。……結局、世界を直視することから逃げ続け、妄想の英雄譚の中にだけ生きることを選んでしまったのは、他でもない彼自身の責任だろう。宛ての無いメール、深宇宙への憧れというカッコイイカタチだけを追って、花苗を含めた島の生活を惰性でしか見られなかった男の末路だ。

確かに、高い目標を持つこと自体は有益だろう。だがそれは「高い」であって「存在しない」目標ではない。目標が現実に存在しない以上、そこへ歩む道は自分の中だけで完結し、現実の行動がそこに結びつかない。結びついて無いのだから、どんなに現実で行動したところで目標には近づけない。ただ果ての無い焦燥感だけが残り、焦燥感がある故にますます現実の「幸福」には目が行かなくなり───ああ、これを彼の責任とだけするには酷に過ぎる、まさに呪いの域にあるネガティブフィードバックだ。

けれど、やっぱり同情はできない。彼には現実に振り返る機会が何度もあったはずだ。

そもそも、何故貴樹と明里の線はいつ切れたのだろう。あの終章を見る限り、手紙は高校まで交わされ続け、明里は結婚まで栃木を出ることは無かったようなのに、彼が東京の大学に行っても既に会うことすらなかった模様。物理的に切れる要因が無かった以上、何処かで、手紙の上で、すれ違った瞬間があったはずなのだ。それは単に明里に他の恋人ができたというだけでなく、貴樹の目が現実に焦点を結んでいないことに、実はもう彼女本人を見ていないことに、手紙の中で彼女が気づいてしまったんじゃないかなあ。自分を見てくれない、という点に明里のような女性はとても敏感だし。

いずれにせよ、彼らはすれ違い、そしてその最大の機会ですら、貴樹は現実に振り返れなかった。その後彼が付き合ったらしい女性からのメールにある通り、彼はもう他人の心に1cmたりとも近づく力を失っていたのだろう。やがて歳を重ね、誰の英雄にもなれず、その架空の目標すら見えなくなって我に返ると、人も、職も、その手には残っていなかったのだ。

──だから、彼は踏切が降りてから振り返る。すれ違う前に手を挙げることも、境界線を渡り切る前に振り返ることもしないまま。明里にもはや線の向こうで待つ理由は無く、一方の彼は全てを失って尚変わらず、絶対に渡れない境界線の向こうに見た幻に、満足げに微笑みながら。……ああ、なんて痛烈な最後。うん、この終わりがあるならば、この物語は実は新海流マンネリエンドから脱却しているのだろう。だって「彼女」「ノボル君」とは違い、貴樹の先行きには全然希望が描かれてないのだから。

曰く、どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか───加速を続ける限り、決してゼロには辿り着けない。君に必要だったのは、むしろ停止か減速だったのだよ。5cm/secで共に歩んでいれば、振り返る余裕もあっただろうに。

本当のおまけ

前段が全然おまけじゃなくなったので、本当に余談を一つ二つ。

今日の一滴="紅茶:ATFディンブラ" (2007/08/23)

【2007-08-26-日】

コミティアと「手に取らせる力」

毎年、夏コミの直後にコミティアがある、という関係は面白い。コミケが、特に夏のそれがまさに宴の如しでエネルギーを発散させるのに対し、ティアは毎度変わらず、物書き、同人屋としてのエネルギーを充填する場であるからだ。

言い換えれば、二次創作を愛し、また同じ二次創作者として、一次創作に対して捧げる愛の乱舞するコミケは共に踊るための場なのだ。一方、ティアは全てが一次創作者であるが故に、純粋に本を作るという意欲がそこかしこに溢れている。如星とて「体裁や構成まで高品質な小説本」を掲げる以上、本全体の造りってモノは常に貪欲に吸収させてもらっているし、一次創作に頼らない、ピンで立てる腰のある物語作りは二次創作であっても非常に参考になる。

なお今回は西1ホールでの開催。ティアもどんどん規模が大きくなる中、島中を一揃い練り歩けるのはこれぐらいが限界かなー。11時に入場して、途中昼など食いつつ15時頃まで掛かってようやく練り歩き完了。最後のほうはヘロヘロになってしまい、スペースを見ていても目に入っておらず、明らかに一見敷居線を越えてる本なのに手に取らずじまいなこともちらほらと。ううむもったいない。

それにしても、この「手に取らせる」力って何だろう。例えば、手に取る気は無かったけど人込みの都合等でスペ前に一瞬滞留したので何気なく手を伸ばして開いてみたら実はすげー面白い本で思わず購入、なんてパターンも結構あるわけで、手に取らせる力が無いばかりに/手に取る気力が無いばかりに、こういう素晴らしい本が見逃されているケースが相当数あるだろうと考えると、この手に取らせる工夫というのは「まずスタートラインに立つ為に」非常に重要なポイントだと言える。にもかかわらず、ここに無頓着なサークルさんも結構いて、勿体無いなぁと思うこともしばしばなのだが……では、どんな本だったらとりあえず手に取って見ているのか、実は如星自身買い手として明確な基準は定義できていないのだ。いわんや作り手としても暗中模索。特に小説系は手に取られても立読みじゃ判断しづらいという二つ目の関門も持ってるので、まず最初の「足を止める力」で門を狭めないようにしないといけないのだが……。

表紙自体の作り、ポスター等のPOP、両者を含めたスペースのデザイン。派手にゴテゴテしても効果は無いし、本やサークルのイメージと合ったものを──なんてのは誰でも思いつくのだが、さて具体案となると難しい。ま、やはり何より中心は本そのものなので、表紙デザインから考えるのが基本である。表紙単体で見向きもされないデザインの本を、スペースデザインやPOPで手にとらせるってのは(当たり前だが)無理な話だ。その点、単にイラスト一発タイトル入り、に留まらない表紙デザインの多いティアの力ある本はやっぱり魅力的だ。大いに参考にしたい。

あと意外に忘れられがちなのが、中に座る売り手の態度。前に人が軽く足を止めても見向きもされないと、やっぱり自分の作品に対する思い入れを疑ってしまうなー。もちろん売り子として常に気を張ってるのがしんどいのは自身百も承知なのだけど。スペースの前にふと足を止めた人に「どうぞご覧になっててくださーい」等ささやかな声掛けをするのはかなり有効で、手に取らせる軽い背中押しになる。また立読みを長めに続けてる人には補足情報を伝えたりと、自分の本の中身を伝えたい!という想い自体を伝えるのが重要なのだ。作者本人ではない売り子さんを頼むときも、その辺はある程度解説可能になるよう事前インプットしておくべきだと思うし、一応ウチは毎度そのようにしているのだが(売り子さん方、毎度本当にありがとー!)

なお余談ではあるが改めて言っておきたい点が一つ、同人誌即売会において大声の呼び込みは百害でしかない。先の「足を止めかけた人に対する声掛け」とは異なり、不特定に対する大声の呼び込みで足を止めようなんて人はほとんどいない。大体前を通る買い手ってのは、その辺りが何のジャンルかぐらい事前チェックなりPOP等で分かっているモノだ。そこに「××本置いてますどうぞー」なんて叫ばれても何の追加情報にもならない。目的意識のある人間にとって、サークルなり本なりに関する追加情報の無い宣伝行為は「邪魔な情報ノイズ」でしかなく、他の情報を処理する上でのマイナス効果しか持ち得ないのだ。……大体八百屋めいた呼び込みで足を止めてる奴なんて即売会で見たことないよ実際。そして近隣のサークルはガナリ声を一日中聞かされるワケで堪ったモンじゃない。叫ぶ余力があったら本作りなりスペース造りで努力せい、といいたくなる。ホント、努力ってのは(現地で咄嗟にどうこうするモンではなく)事前の仕込み準備こそが重要ってコトですな。

今日の一滴="−−−−" (2007/08/26)

【2007-08-28-火】

天秤の固定化

何かを誉めようとレビューを書き出せば、自分の思考を文章に落としていく事で好意が構造化され、論理化され、本当に最初からそう感じていたかのように自分の心まで変化し、最終的に対象を強く肯定している自分が残る。貶そうと思って書き出せばその逆で、対象を理詰めで否定している自分が残る。

問題は、必ずしも最初からそこまで論理的に考えていたわけでは無いだけでなく、そもそも好悪の感情すら半々程度だったりする状態から書き出しているのに、しばしば書き終わったときには天秤が傾ききってしまっている、という辺りにある。人間、一度構造化・論理化した自分自身の思考を覆すのはとても億劫に感じるものだ。ましては思考の方向性が一度固まってしまえば、他者に変節と指摘される恐怖を抜きにしても、自身の思考を転換する発想にはなかなか至らない。書き出すという自分の思考を整理するはずの行為が、自分の思考を少々極端な方向に寄せて固定してしまうことがある、ということだ。

これは何か作品に対するレビュー等のみならず、他人に対する評価、好悪の感情もまた然りだ。第一印象が覆しがたいというのは、何も万人が第一印象で全てを決めてしまうからではない。結局その後、最初に決定した方向性を増強していくだけの判定を幾度も重ねてしまうからだろう。繰り返すが、一度決めた方向性、一度組み上げた「論理的思考」を覆すのは本当に面倒なのだ。頭を冷やせという言葉は、完全に思考を失った激情の際にしか有効ではなく、それ以外の頭を冷やす、距離を置く等の行為は、この最初の方向性を崩しうる新たな情報入力が無い限り、ますます「論理的に」最初の方向性を強化していくようにしか働かないのである、大抵。

だからこそ、何か/誰かへの評価はあまり固めてしまわないよう、常に意識しておいた方が良い。これはつまらない、コイツは嫌いと断じて終わらせる方がシンプルかもしれないが、それらが持ちうる別の旨み、新しい楽しみ方を見逃してしまう可能性がある。天秤が振り切っていなければそんな追加情報も比較的受け入れやすいだろうし、裏を返せば、追加情報なしに判定を繰り返すのはなるべく避けたほうがいいってことだと思うのだ。

通販関係業務連絡

「葉桜に燈す夏への送り火」自サイト通販についてですが、25日(土)までに振込いただいた方への発送を完了いたしました。現時点で「申し込んだのに連絡が無い」「土曜前に振り込んだのに発送連絡メールが無い」という方がいらっしゃいましたら、メールまたはメールフォームにてご一報くださいませ。

今日の一滴="麦酒:バス・ペールエール" (2007/08/28)


 
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