VERBA VOLANT, SCRIPTA MANENT.

如星的茶葉暮らし

■ 06月下旬 ■

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酒の一滴は血の一滴。茶の一滴は心の一滴。ネタの一滴は人生の発露。


 

【2007-06-22-金】

ヴァカンツァ・イン・ヴェネツィア

ハンディデジカメでこの高倍率望遠は本当に楽しい。定番写真もディテールがここまで出るとグッと面白みが増す。

先日ぷくと岩牡蠣を貪りつつ、土産のフラゴリーノを渡して先日のヴェネツィア帰国の四方山話に華を咲かせていたところ、それはまさにヴァカンスだねぇと言われ、そういやそうだと腑に落ちた。

如星自身、少なくともヴェネツィア行をもはや「観光旅行」とは捉えてなかったけど、そうかヴァカンスかー。実際ヴェネツィアはリゾートという顔も持つ街だが、如星にとってこの都市を訪れる理由や目的はそんなリゾートスタイルとはあまり関係がない。が、勝手気ままにひたすら休暇を楽しむという意味では完璧にヴァカンスだ。あまり表立ってそういう印象を自身持っていなかったのは、本来如星とは生き急ぐタイプの人間であり、休日すら楽しみの効率化を求める性質だからだろう。そんな自分が、確かにあの街を歩く間は実にのんびりとしてるんだから驚きだ。それは単に観光名所を見尽くしているから、というだけではないのだろう。もちろん、そうやって気を抜ける位には街を知ってるという点は大きいのだけど───初見で寛ぎ切れるほど、ここはシンプルなリゾート地ではないからね。

如星のヴェネツィア感については何度か書いた。何処か哀しさを湛えた街であり、表と裏、光と影という存在を持つ石の都市。圧倒的に美しく、存在自体が奇跡のような街だけど、例えば水の流れるキラキラした石造りの街並みを想像して足を踏み入れると、その何処かドロッとした、薄汚れてすらいる光景に戸惑いを覚えるかもしれない。写真やイラストで見たままの、あるいは歴史小説で読んだままの聖マルコ広場や元首官邸の姿には今でも感動を覚えるけど、それは一方で保存に対する感情である。そしてその足元にある落書きのような、単なる観光地の臭いには目を背けたくなるかもしれない。

しかし、薄暗い迷路のような路地を歩き、その隙間から不意に広がる教会の数々を眺め、太鼓橋を黙々と渡る人々、運河を行き交い、水面と共に生きる人々を見出し、そして早朝の聖マルコ広場、古の神聖すら漂わせる静かなあの広場に一人で座っていると、真昼間にこの同じ広場を満たす品のない喧騒すら、いつの間にかいとおしくなってくる。ちっとも澄んではいない濁った緑の運河は生きた流れとなり、大理石の剥落した壁は単に歴史を示すものではなく、一つのそうあるがままの街の姿となって目に映る。

このヴェネツィアがかつて歩んだ道を一度知ってしまえば、そこに一抹の寂しさは残る。奇跡のような造りの都市は残ったが、その上で歴史の中に編み上げられた奇跡のような存在は残らなかった。これがフォロ・ロマーノのように完全な廃墟であり遺跡であれば、それは単なる寂寞として心を抜けるのだろう。だが、ここでは器は完璧に近い形で残っている。ヴェネツィアを訪れた初めのうちは、それが何より哀しくてたまらなかった。だが、今やそれは一抹の寂しさで済んでいる。それでもこの街が生きていて、そして愛されているのだと───橋の上から水路を見下ろした時に、あるいはイタリア語しか通じない親父から一杯のワインを注がれたときに、なんとなくそれがわかってしまうのだ。

徒に嘆かず、ただ在り続け、されど人の想いを捨てないというヴェネツィアの在り方。それが犬のように生きんとする如星と波長が合うからこそ、この街は自分に取って最高のヴァカンスの地であるのだろう。この場所でこそ、自分は心から寛げるのだから。

いや、普段はそんな小難しいこと考えっぱなしでヴェネツィアを目指してる訳じゃないスけどね。

今日の一滴="フラゴリーノ・ロッソ" (2007/06/22)

【2007-06-23-土】

モルテ・ア・ヴェネツィア

朝の聖マルコ広場、これはカフェ・フローリアン対岸より

ヴェネツィア滞在最終日、早朝の聖マルコ広場を歩き回るでもなくぼんやりと眺めていた。ARIAで灯里が楽しんだような聖マルコ広場とカフェ・フローリアンのコンビネーションは、残念ながらカフェオープン後にはもう得られない。静かで美しい広場をこの場所から味わうには、開店前の早朝に勝手に座るしかないのである。

これから数時間後にはホテルをチェックアウトし、荷物は預けておいて最後の街歩き。そして夕方にはアリラグーナで本島を、ヴェネツィアを去る。──しかし、不思議と名残惜しい感じはしなかった。朝日が撫でていく人気のない石畳を眺めながら、充足感に近い、ただし高揚の一切ない穏やかな気分だけが心の中にはあった。あの日から半月以上過ぎた今でも、その時の気分ははっきりと思い出せるほどに。

こういう事を書くと不吉だとか言われてしまいそうなのだが、冗談ではなくこの時「あーもう死んでもいいかなー」という考えがするっと脳裏に浮かんできた。素晴らしい物が見られたから死んでもいいというような感慨ではなく、凛辺りに言わせれば「次の日にはあっさり事故で死んじゃうような雰囲気」に近い。ああ、もういいかな、という気分。……誤解なきよう書いておくけど、別に如星には早逝願望はないし、やりたい事も未練もたっぷりある。ただ、あの瞬間ならそれらを全て忘れ、あっさり逝けるだろうなと思ったし、逆にそれだけの充足感があれば、あの時死んでも良かった俺はいつまででも生きる気分でいられるなとも思ったのだ。

と、別の側面を考える。日本からこの地に来るには、それなりの、だがそれほど困難ではない程度の金が要る。俺はその金額さえ持っていれば、あるいは稼ぐ事が出来れば、いつでも幸せな終わりを迎えられるのだと考える。死にたくなる程辛い事があれば、それだけの金を掴んでこの地に来ればいい。結果、生きたくなればそのままで。死にたいままなら何処ででも逝けばいい。──そう考えると、あらゆる意味で気が楽になった。天国の切符を最前列で予約できたような気分、脱出コードを手元に置けた気分というか。ま、考え方によっちゃ、これは随分と無責任な発想ではある……独り身ならではとも言われそうだし(ただ裏を返せば、そもそも俺をそういう気分にさせない人しか、俺は家族には持ちたくないってことなんだけどな)

世界で最も美しい広場サロン。聖マルコ広場を評したこの言葉は皮肉にも、ヴェネツィア共和国を滅ぼした仇敵ナポレオンの台詞である。その広場の一翼を叩き壊して作り変えさせた男だけど、その成し遂げたる帝国は残らず、ただやりたいようにやった一翼は残り、それを評した言葉も、時に彼の名前が抜け落ちたままで記憶された。

何かを残すとは何だろう。ヴェネツィアを見ていると、そんなことを考える。この街自体はヴェネツィアの成し遂げた事跡の結果ではあろうけど、彼らが本当に残したかったのは、その奇跡のような共和国ではなかったか。ナポレオンも、ヴェネツィアも、願ったものは残らなかった。一方、死ぬまでに何かを成し遂げ残そうとする意志は、多分今の自分にはまるでない。そうではなく、死ぬまで自分のペースで積み上げていく何かが、たまたまそのまま残る事があり、そしてたまたま人の心に何かを残すことがあるのだろう。俺はそれでいいと思うし、だからこそ、いつ死んでも「積み残した」という気分にはならずにいられるのだろう。

ヴェネツィアの中にいると、そんなことを考える。高揚のない、穏やかな気分と共に。

今日の一滴="−−−−" (2007/06/23)

【2007-06-25-月】

フレンチ・リベンジ:ヌーヴェルエールにいってきました

新丸ビルにできたオーグードゥジュールの新店舗・ヌーヴェルエールに行ってきましたよ。

ビル自体には別段惹かれない如星だが、諸人が絶賛するオーグードゥジュールの新店舗となれば、これは試してもみたくなる。あいにく麹町の本店自体一度しか試したことはないのだけど、女性人気と言っても見てくれや雰囲気だけではなく、かなりの実力派だとはみてとれたしね。

また今回のフレンチにはリベンジの意味合いもあった。実は3月の自分の誕生日の際、相方に別のとある有名なフレンチ\に連れて行ってもらったのだが……。奢ってもらっておいて言うのも何だが(というかお互い言い合ったがw)、値段相応の満足度は得られなかったのだ。味もサービスもそこそこ良かったのだが、なんかこう画竜点睛を欠くというか、サービスが、うーむ。普段行く店がイタリアンか、フレンチでもビストロ系が主なだけに、フレンチに対する印象はなかなか回復しなかったのである。故に、サービスでは定評のある本系列にてリベンジリベンジと。

……前置きが長くなってしまった。そしていきなり結論から言えば、これは大満足。

一応大食いにしてイタリアンなどもフルポーション食い切る我らだが、この店の売りらしいデザートに確実に到達するため、ポタージュや魚をシェアする形で分けてもらうことにしたのだが、オーダーのその場で分け方に応じた皿の順番の入れ替えなどをパパッと提案してくれる気持ちよさ。最初に席に着いた時から食前酒、オーダーに到るまで、小気味良いサーヴィスが続いて完全にリラックスできる。こっちの頼み方を見てて勘付いたのか、デザート前のチーズなんて何も言わなくても既にトレイを持ってきてくれるし。ホント気持ちいいわ、こりゃ。

肝心の料理の味のほうも素晴らしい。提案通り前菜より前に持ってきてもらった揚げ茄子のポタージュは確かにサラダのようでスタートに最適だったし、内臓などもつき混ぜたテリーヌも旨い。以前ベッカッチャで食べたドーバーソールの余りの旨さに、何処で食っても霞み続けていた白身魚も、この日の白カサゴで遂に「同等」と思える一皿に出会えたし。メインは仔鳩と豚を頼んだのだけど、これは仔鳩の完璧な勝利。「赤身の鳥」としか言いようのないぷりぷりの身とソースが絶妙である。フロマージュのレベルもキチンと高かったし、デザートに頼んだ「桃のコンポート・ベルベーヌ風味」は、桃を噛み締めた時「だけ」ベルベーヌのハーブの香りがふっと立つ逸品。ゲランドの塩キャラメルのアイスは酒が欲しくなるような味わいだし。そうそう、発泡水も「定番品」はひとつもなく、泡のきめ細かさ、刺激の強さなどで選ばれた三種(フランス2種、スペイン1種)が揃っており、ガス入りファンとしてはこれらを試すだけでも楽しかったり。

というわけで、満足。とても満足。フレンチの悪印象はここに完全に払拭されたと言えよう:)

店は狭めで、席数が少ないとはいえ隣のテーブルも少々近く、やかましい客が一卓でもいるとちょっと辛いかもしれない。新丸ビルというハコに入っている以上仕方が無い──というか、ぶっちゃけ「何故ここに」と思わないでもない立地だが、それにしても比較的気軽に高クオリティのサービスと味を楽しめる良店でありました。立地条件、デザートがメニュートップにあるなど「女性向け?」とか思ってしまうかもしれないけど、ボリュームや味はガツンとしておりますのでご安心を。オヌヌメです。

余談:普段使い用の新丸ビル

なお新丸ビル自体は「噂の」と枕詞のつく場所だが、都心に相次いで建てられたこの手の商業複合体──ほげヒルズとかほげビルって、正直再訪させる程の面白さを感じたことがない。時折ピンポイントで補給に行きたい店が入っていたりはするけどねぇ……。

しかし如星の主職場は一応丸の内なので(最近まで羽田島流しだったがw)、新丸ビルは仕事帰り等に普段使いとして行くならアリかもしれない。昨年のイタリアフェアで惚れ込んだリコッタのスフレの店、「イル・カランドリーノ」が来日していたり、サンケイビルの地下にも出店を出していたキッシュとテリーヌのテイクアウト店、ル・ジャルダンが入っていたり。イル・カランドリーノのリストランテ部門は一度試してみたいしね。あ、ここのシアロー系カフェ「アパッショナータ」、アイスバインのサンドウィッチは結構旨いので昼飯にはお勧め。

また地味ながらサンタ・マリア・ノヴェッラが入っており、しかも余所の出店と違ってほぼ銀座店並みの品揃えのようで、何かを仕事帰りに補給したくなった時には良いのかも。一方で以前は東京出展と聞いてちょっと期待していたショコラティエ「パレオドール」だけど、以前のバレンタイン出店で評したように、やっぱり今ひとつ惹かれない。繰り返しになるが、決して旨くないわけじゃないけど、このクラスのショコラティエには「ファンタジスタ」を求めてしまうのですよ、やっぱり。ま、旨いショコラでちょっと座っていけるのはよいかもね。

今日の一滴="酒:どこぞの旨いフィーヌ" (2007/06/25)

【2007-06-29-金】

二次創作のスタンス:創る者と探す者

小説に限らず、一定の長さを持つ二次創作の物語は大きく二つに分けられると思う。一つはアフターストーリーに代表される「広げるもの」、もう一つはサイドストーリーに代表される「満たすもの」だ。なお、最も一般的な尺の、かつ連作ではない同人誌漫画については「瞬間の感情を切り取ったもの」、詩に近い創作だと如星は思っているので、ここでは省いて考える。

広げるものとは、文字通り原作の世界を基盤として、その世界を広げるタイプの二次創作だ。基本は後日談的なもの、あるいは後日談よりも更に未来的な作品など。また原作と同時期あるいは過去の話であっても、原作に直接的な影響を及ぼさないもの(神話とか別の国とか、世界観だけを踏襲するもの)も、この範疇に入るだろう。さらには改変物の中でも、原作を大きく逸脱するifを描く物語もここに含まれる。

一方の満たすものは、原作世界ではたまたま描かれなかった、しかし恐らくそこに存在していたであろう物語、つまり空白を埋めるものだ。原作へと直接続く近い過去や、語られなかったサブキャラの物語など。たとえ後日談であっても、原作中で描かれなかった、しかし原作時間中のキャラの心情などが題材であれば、こちらの範疇に入ると思う。あくまで原作の枠内に収まる改変物なども、帰結点が原作の「範囲内」という点においてはこちらだろう。

なんだ、満たすものだって「原作を基盤に新しい物語」を広げてるんじゃ、と思われるかもしれない。だが両者の決定的な違いは物語の新規性ではなく、原作という枠の外を描くものか、内を描くものかという点だ。原作を起点に帰結を自由に描くものか、原作を終着点に過程を自由に描くもの、とも言える。こう表現すると、同じ二次創作とは言え、両者の作り手に求められる創作力、方向性は結構違うものじゃないかと、何となく見えてくる。橙子風に言うならば「前者は創る者、後者は探す者」になるのかな。いずれも一次作品の褌を借りた創作に違いは無いけど、前者は世界やキャラの造形部分を借りて物語作りに集中し飛翔する、いわばオリジナル創作に近い存在だ。後者は原作世界をひたすら充足し、捧げるために創造性を発揮するため、こだわりは自身の物語より、原作そのものへの探求となる。いずれも、それぞれの醍醐味があって面白い。

さて。如星は典型的な後者なんだろう、というのが最近の実感だ。君望では主に後日談の茜を描いたけど、それは新規創造ではなく、あくまで原作の中の彼女の立ち位置を整理し、原作内の彼女の心に帰結点を与えようとした作品だ。あるいは遙の死という巨大なifを持ち込んでも、逆にそれを帰結点、枠として、そこに至る原作内の物語を描いたりもした。Fateについても同様、結局は原作の内に還るイリヤと士郎の心がメインである。estate dolceでは「その後の聖杯始末」への流れを書いてるようには見えるけど、実際には士郎とセイバーの心の確認という主題は決着がついており、あの物語より先に書き手としての興味はない。よって続編も予定していないのだ(avenge nightでちょっとだけギャグっぽく書いたしね)。マブラヴ・オルタについても、桜花作戦以後の未来を書いた作品は多いが──如星の興味はむしろそれ以前、例えば日本大上陸時や、佐渡島への軌道降下兵のネタなんかにあったりするのだ。

枠とは別の見方をすれば制限であり、創作に型が嵌められるということでもある。だが、自分にとってはその中で創意工夫を凝らすのがとにかく楽しいのだ。イタリアの古都の建築家は、非常に厳しい景観制限の中で創作性を発揮するからこそ、逆に高い創造性を培えるのだ──というイタリア人建築家の自負を聞いたことがある。ま、自分はそこまでの創造性を目指してはいないが、箱庭作りと整合性、そこにどれだけの遊びと感情を持ち込めるか、そんなことを考えるのが好きなんだろうな。だからこそ、自分はオリジナルではなく二次創作向きであり、それは単純に「原作に捧げたい」というだけでなく、更に「満たすもの」であるからなのだ。

Fate/Zeroの作者・虚淵玄はいみじくも言い切ったり。stay nightという大団円が決まっているからこそ、Zeroではキャラをどれだけ虐めてもよいと。その心情、とーっても理解できたりするのよね:)

今日の一滴="−−−−" (2007/06/29)


 
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