VERBA VOLANT, SCRIPTA MANENT.

如星的茶葉暮らし

■ 01月下旬 ■

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酒の一滴は血の一滴。茶の一滴は心の一滴。ネタの一滴は人生の発露。


 

【2007-01-21-日】

TH2オルタネイティヴ:基本設定

滅び行く世界に燈った最初の炎──それは語られなかったもうひとつの過去。

/アテナ中隊 【ATHENA/部隊名】

正式名称オルタネイティブ3感応強襲実験中隊(Alternative THree Experimental Nerval-Assault Squadron)

オルタ3極東司令部直属のオルタ3最終概念実証部隊。Su-32Aプラティパス5機を中核とし、その他全機B-Links及びL-Systemを搭載。BETAの関東侵攻期以降明星作戦までの間、エリアTH2を実証実験フィールドとして防衛戦に参戦し、国連軍及び帝国軍衛士からは女神と崇められ、悪魔と畏怖された。明星作戦終結と共に消滅。

/BETA大戦 【時代名称】

1973年カシュガルハイヴ落着以来の、BETAと呼称される地球外生命体との戦役の総称。一方的虐殺を蒙った撤退期、ジリ貧の膠着状態となった抵抗期、ハイヴ攻略に成功し始めた第一次反攻期に分けられる。なおオペレーション・チェリーブロッサムを扱った作品に、マブラヴ オルタネイティヴがある。

/明星作戦 【作戦名】

オペレーション・ルシファー。本作品の中核イベント。BETA大戦における第一次反攻期の端緒とされる、1999年の横浜ハイヴ攻略/関東奪還戦である。人類初のハイヴ攻略戦勝利にも関わらず、何故か語られることが少ない。日本人は国土へのG弾投下作戦としてこれを忌む。

実は現在も未公表の衛士未帰還率は80%に達しており、残りもほとんどが「7分間」の犠牲者である。つまり「何故か語られない」も何も、要するに語ろうにも語れる人間がほとんど残っていないのが実情。

/エリアTH2 【地名】

帝国軍多摩川流域帝都絶対防衛区域・TH2。通称桜並木(チェリーフィールド)

通称は空気の読めなさでは世界最強の米軍兵士らによって命名。元々険悪の底にあった米兵と帝国兵の関係の釜底を一気にぶち抜いた。が、その後帝国軍衛士らも当初の解釈を微妙に変えて受け入れ、利用するようになる。

/Su-32プラティパス 【戦術機名】

ソビエト連邦軍の第二世代戦術機。実験機として数十体が製造されたのみ。

ソ連軍の主力戦術機として成功したSu-27を流用し、シベリア極東から長躯ウラル山脈以西の国土奪還を狙った重装戦術機。内陸部にハイヴを抱え、自然陸戦主体で長躯侵攻せざるを得ないソ連軍の事情を背景にしている。最低限の補給下での長距離侵出に伴う衛士の負担軽減の為、コミュニケーションの容易な並列複座型の採用に加え、トイレや簡易キッチンが装備された。また大容量ウェポンベイを搭載するなど重装の大型機ではあるが、機動性は第二世代とは思えぬほど高い。

機動性維持のため後の第三世代戦術機にも採用された技術が数多く先行利用されるなど技術的な価値は高かったが、「ハイヴ中核を強襲するに足る戦闘能力を保持したまま長躯侵攻する」という運用目的達成へのハードルはあまりに高く、また軌道降下戦術の発達により地上戦力による長躯侵攻の必要性そのものが低下したため、実験機段階で開発は中止された。

/Su-32Aプラティパス・オルタ 【戦術機名】

国連軍オルタ3実証部隊の準第三世代戦術機。

久寿川博士がソビエトからSu-32の残存機を半ば強引に国連に引き渡させ、オルタ3理論に基づく大改修を施した機体。元々の少数/単独行動向きの性能と大容量ペイロードが買われ、キッチン等の装備も全て取っ払われてB-Linksを初めとする電子戦機並の特殊装備が詰め込まれている。また高いといっても巨体故に限界のあった機動性も、L-System導入により運用側で解消された。5機のみ存在。残りのSu-32機体は全て共食い整備に使われた。

/柚原このみ 【人物名】

アテナ2番機ナヴィ。サンプルTH0906。

ささらに次ぐ感応能力を誇り、パイロットより圧倒的にナヴィ向き。安定性ではささらよりも上のため、B/L系統のプライマリー・ハブがアサインされている。ムードメーカー。得意技は必殺合成カレー。パートナーはサンプルTH0707「向坂環」。

/ローレライの7分間 【通称】

明星作戦におけるクリティカル・パス。

/オルタネイティブ3極東司令部 【組織名】

オルタネイティブ計画3(ALT-III)の最後の砦。

ESP発現体によるBETAとの意思疎通を目的としてスタートしたオルタ3だが、その活動対象はBETA戦術の実戦調査及び対処実験等広範に渡り、専属の実働部隊も多く抱えている。だが肝心の意思疎通には成功に至らず、1995年にはオルタ3の随時終結とオルタ4への吸収が安保理により決議されたのだが、唯一極東部のみ「現在実証実験作戦が進行中」であることを理由に解散及びオルタ4極東司令部への引継ぎを拒否。続行権限自体は確かに安保理より付与されたものであり、1999年まで活動が続けられた。

/久寿川結衣 【人物名】

オルタ3極東司令部最高責任者。1995年以降は事実上オルタ3全体の最高責任者。

自身の理論実証を何よりも優先させる典型的なエリート(ないしは魔術師)タイプ。成果を乗っ取られることを恐れ、後任の香月博士を「泥棒猫」と呼んで敵愾心を剥き出しにしている。なお両者は手段を選ばぬという点においては共通しているものの、香月の目的が人類最優先なのに対し、久寿川は理論の成功以外に興味はない。

/米国戦略軌道艦隊所属駆逐艦「エノラ・ゲイ」 【艦名】

人類初のG弾装備駆逐艦。後にオルタネイティヴ5に接収された。

今日の一滴="−−−−" (2007/01/21)

【2007-01-22-月】

TH2オルタネイティヴ:基本コンセプト

先日コンセプトと称して書き殴ったオルタ用語集。縁起も何も無いので全然コンセプトじゃないですな……。とりあえず元エントリは基本設定と名を変えておき、一方でコンセプトと言えなくも無いネタの起こりなどをチョロっとこちらに書いておこう。

縁起

もちろんこの話のネタ元は如星が昨年この時期にはまったマブラヴ・オルタネイティヴ。「東鳩キャラをオルタ世界に展開したらどうなるか」なんてのはよくある内輪の妄想話題なのだけど、ただそれとは別の話で、そもそもオルタで二次創作をするならどんなモノが可能か、と模索も一時期してたのです。原作がほぼ一本道でドシリアスという点はFateと似てるけど、こちらは原作以前と以後に主人公は存在せず、サブキャラ同士の絡みも少なめなので過去話等はやりづらい。ギャグは如星や小説の苦手なところだし、とするとむしろ君望の孝之が関わっているらしい「もっと前」、明星作戦の辺りなんかを君望キャラで書くのが狙い目かなー、なんて考えてたワケですよ。これはFateでも次は第四次聖杯戦争を書いてみるかなー、と思ってたところなので、発想の方向性は同じですな。もっともFateの聖杯戦争は公式で正典が作られてしまったので陽の目を見ることはなさそうですが。これについては後日Zeroの感想などで一つ。

閑話休題。じゃあ具体的にマブラブオルタで過去ネタをやるならどんな話が、とつらつら考えるわけですが、問題は明星作戦当時「遙と水月は任官前」という事実も明らかにされている点で、そのまま君望キャラを使うと「オルタ世界で君望的恋愛機微をちょっと戦争悲壮モノっぽく書く」ような方向になってしまい、今ひとつ「オルタという舞台」を使い切れないなぁとも考えたわけです。一方で、純粋に「過去の明星作戦はどんな戦争だったのか」「それ以前のBETA大戦の進行は」「戦術機の運用とか開発経緯ってどんなもんか」「センシングは」「ソ連は今」等々、仮想戦記モノとしての推察考証も雑談ネタとしては盛り上がるところ。──そこで閃いたある一つの仮定設定と、前述の理由からマブラヴ・君望に拘らず他キャラをつかってまえ、そうだちょうどTH2がある、という2つの要素が連鎖反応的に妄想を産みまくり、TH2オルタネイティヴという一つの壮大な妄想ネタとして結実したわけです。その妄想の一つの垂れ流しが、昨年原稿時期に現実逃避で書いた「1998年のBETA日本侵攻に関する若干の考察」だったりするのですが。

とか言ってたらまたしても公式でトータル・イクリプスなんてモノが始まってしまう始末。またしても自分後出しジャンケン。軽く読んでみたところ明星作戦付近は扱わないみたいだし、考えていた設定に抵触しそうな面もなさそうなので安心しましたが。むしろSu-37の設定等、資料として大いに役立ちそう。

コンセプト

あー前置き長かった(苦笑)。というわけでこの妄想ネタのコンセプトですが、

といったところですね。ただ如星はいわゆる軍オタ(誉め言葉)ではないので、その辺はアドバイザーを仰ぎつつ頑張らねばなりません。元々有り得ない話ですが、有り得なさすぎじゃあ面白くないですからねぇ。あとSu-32Aのデザインとかしてくれる人募集中。ATHENAのロゴもてきとーなでっち上げだし。

で、本気でこんなモノ書くのかな、俺

……マジレスすると夏コミ本というよりはWebネタの方が向いてるかも。

今日の一滴="−−−−" (2007/01/22)

【2007-01-23-火】

Zeroの衝撃

虚淵玄「Fate/Zero」、店頭売りを確保して先週頃読了。──や、なんつーか久々に熱いアクションモノを堪能しましたよ。正直読み始めるまでは、奈須文体と虚淵文体、いや世界観の捉え方そのもので違和感を覚えないかと、いわば好きな小説の映画化/アニメ化を見る思いでいたのだけど、蓋を開けてみればそんな事は一切思い出す暇のない勢いで読みきってしまった。実にスピード感のある作品である。

本作はFateの過去話である第四次戦争を他人が同一媒体(文字)で描く、というかなり異色の作品だ(いやFateはゲームと言っても小説に近いしさ)。つまり単なるゲームのノベライズであれば、所詮駄作の多い世界と期待もせず、気楽に手に取るも放置するも簡単なのだけど、なまじ文字同士だけにこれは見逃せず、さりとて不安もありという心境だったのだ。が、まぁ後書きでも触れられた通り、虚淵氏はかなりFate文体(敢えて奈須とは言わぬ)に近づけて書くよう努めたらしく、結果まず文体面で違和感がない。これって同じ文字の二次創作をやる人間としてはかなり気を使う面なので思わず目がいってしまうのだが、流石は本職、巧い絵描きさんの本気模写にも似て、奈須読者が読んでも表現面で違和感がなく、さりとて過剰に奈須文体の強烈な特徴を無理に取り込みもしない、絶妙なバランスが取られていた。……何をそんな事を大袈裟にと思われるかもしれないけど、二次創作において「文体で引っ掛からず本筋を楽しんでもらう」ってのは実に重要なポイントなのだ。また世界観の解釈も、僅かに違和感を覚えた箇所が数箇所あったのみで、この辺は流石に本家のチェック済みというところか。ま、読み手としちゃ実は文体ほどこっちは気にしてないんだけどね。自らの解釈の上に読者が楽しめる世界が構築してあれば、それでいいのだから。

肝心の中身は、最初にも書いたとおり、アクション主体でスピード感のある内容。繰り返しになるけど文体面、そして文句なしの文章力で余計な引っ掛かりを感じずに済むので、アクセル踏みっぱなしの聖杯戦争という醍醐味を存分に味わえる。元々Fateは境界・月姫・そして何気にホロウにも較べ、深淵なる奈須節は軽めの傾向の作品だけど、Zeroはその傾向を更に強めたモノと言って良い。今のところではあるけれど、切嗣も綺礼もFate本編からの推測の範疇を出ないというか、ある意味その複雑な内面すら分かりやすく描写されている。人によってはそこに不満を感じるかもしれないけど、如星としては「まずは派手に聖杯戦争で遊び倒す」という快楽を提供する上ではちょうど良い塩梅だと思う。ま、Fate本編に至る過程で「総員の不幸が決定」されている事を後書きで嬉々として語る虚淵氏のこと、2巻目以降ではもう少し複雑な精神的追い込みが掛かるのかもしれないけどね。

というわけで、Fateで少々漢分が足りなかったという諸氏(士郎やアチャは確かに漢だがちと青臭すぎる向きもあった)そして野郎の絡みにて更なる腐女子分を求める諸氏、本作は安心してFate経験者にお勧めできる良作である。とりあえず押さえておいて損はないですよ:)

……さて以下、感想というよりは戯言。

「騎士王セイバー、英雄王ギル、そして征服王イスカンダル」という三種の王の視点を使ってセイバーの物語を語る、という今回のZero手法は、正直「あ、やられた」と思ったのですよ。先日オルタネタを書いたときにも少し触れたけど、ちょっと第四次を書いてみるかなー、と思索してた時に頭にあったのは、少々公式設定を改変してライダーに「神君ユリウス・カエサル」をあて、王を超越したあらゆる帝号の祖、欧州を拓いた伝説の神君という立場でセイバー&ギルと絡めてみたいなー、なんてシナリオだったのである。(あ、宝具はもちろん「約束された勝利の軍(ローマ・ヴィクトール)」と「踏み越えし証の賽(アンテ・ルビコヌム)」ね!) もちろん、今更そんな事を言っても後出しの極みにて詮無きコト哉、しかしちょっと先回りされた気分ぐらいは味わわせて欲しい(笑)。イスカンダルとは違ってまずは合法的に合衆国大統領を狙っちゃうカエサル、なんて小ネタも浮かんでたんだがなぁ、ぐぐ。……ま、とは言え例えば如星はカエサルを遠坂パパのサーヴァントとして想定してたけど、冷静に考えてみれば言峰綺礼が直でギル様を呼べるとは考えにくいし、今回のZeroの流れの方が圧倒的に自然である。うう、巧いなぁホント。流石。

あと個人的には明らかになった切嗣の戦闘スタイルがかなり好み。何処か橙子さんにも似た、あくまで魔術を手段としてしか捉えていない辺りとか。なんつか伝奇モノでありがちな、近代兵器がワケもなく無効化されるような世界よりはよっぽど現実味があるし、魔術というメソドロジーの衰退期らしい使い方である。この辺り、「衰退」を描くという点で虚淵氏も得意とするところなのかな。

今日の一滴="モルト:スキャパ12年" (2007/01/23)

【2007-01-24-水】

KUSMI TEA:カシミール・チャイ

一度小耳に挟んだことのある、だが見慣れないお茶を発見したので確保してみた。その名もKUSMI TEA(クスミティー)である。

どうも公式を見たところ、フランスに亡命したロシア貴族の紅茶、といったフレーバリングらしい。フランス系のフレーバーティーは「マリアージュフレール」を見ても分かるように、紅茶初期からの歴史が築いた、独特で複雑、高度とすら呼べる香りを持つものが多い。日本人には少々合わないような香りもあるけれど、そういう香りこそを愛してしまう如星、もちろんまりあげ茶も各種自宅に揃えているし、このクスミティも歴史に裏打ちされたブランドのようで、新たな香り物紅茶として大いに期待してしまう:)

今回買ってみたのは「カシミールチャイ」。店頭ではあまり深く考えずに手に取ったのだけど、調べてみれば文字通りインド系のチャイフレーバリング、というより普通にチャイに使うスパイスを混ぜ込んだお茶のよう。フランス系の香り付けを期待していた分ちょっと肩透かしを食らった感じだけど、自分でスパイスをブレンドしなくて良いお手軽チャイになるだろうと、早速手鍋で煮出してみた。

スパイスがシナモンベースなのは普通だけど、特徴的なのはクローブがかなり多めなところ。粉ではなくキチンとホールのクローブがころころと入っている。……うん、茶葉のボディもスパイスに負けない強さがあるし、クローブのあの不思議な甘さの効いた「理想的なチャイ」の出来上がりである。まぁ普通のチャイであれば普段から自分で各種スパイスをぶち込んで作っているので、このカシミールをまた買うことはないだろうけど、品質の良さには感心。今度是非別のフレーバーを買ってみよう。

スパイス揃えるのめんどいけどチャイは飲みたい、という人には迷わずお勧め。

今日の一滴="紅茶:クスミティ・カスミールチャイ" (2007/01/24)

【2007-01-25-木】

ピエトロ・ロマネンゴの薔薇:砂糖の旨さ

去年のイタリアフェアで確保しておいた、ピエトロ・ロマネンゴの薔薇のジャムをようやく封切ってみた。

ここの砂糖菓子は以前からの愛用品である。シナモンやアニスをシンプルに砂糖がけした金平糖大のつまみはPCの傍らに置かれたリフレッシャーだし、香り高いリキュールが惜しげもなく入ったシュガーボンボンは、ちょいと嬉しい事があった時、あるいはちと気合を入れたい時にひょいと摘まんでいる。歴史あるジェノヴァの名店、包みも品が良く、それを眺めるだけでも楽しい。

で、そのロマネンゴのジャム。薔薇のジャムは要するに薔薇の花びらを砂糖で煮詰めたモノであり、薔薇の香り、風味を楽しむもの。味は単に煮詰めた砂糖のものになるのだが……。や、その砂糖が旨いのですよ。これは白い砂糖の旨みとしか言いようがない。流石は砂糖菓子専門店、どちらかと言えば砂糖自体の風味を楽しむ和菓子に近い使い方である。今まで食べていたスパイスやボンボンのような「噛み砕く」菓子では分からず、舌の上にじっくりと練り落として味わうジャムとして食べて初めて気がついたその旨み。薔薇の香りに全然負けない味わいである。うーん大当たり。

つかですね、最近は「砂糖控えめ」が何か至上命題のように言われてるけど、砂糖ってのは甘味だけじゃなく旨味も司ってるわけですよ。ある和菓子職人曰く、「上菓子にとって大切なのは小豆と砂糖のバランス。上白糖のアクと小豆の風味のバランスが取れたとき、お菓子の旨味が出てくる。逆に言えば、砂糖をちゃんと入れないと他の素材の旨味まで消してしまう」とか。もちろんフルーツ等の素材を生かすために砂糖を減らす等の手法を否定するわけじゃないけど、砂糖を使うべきところで変に砂糖を避けてしまうのは何だかなぁと思う。あ、もちろん挙句の果てに合成甘味料とか使うのは論外ね。

ちなみにこいつをヨーグルトに落として食うと極上ですよ。幸せな週末の朝食が楽しめます:)

今日の一滴="−−−−" (2007/01/25)

【2007-01-26-金】

めっけもんの人生

いつからか、自分の人生は「めっけもん」だと思うようになっていた。めっけもんを「愉しもう」と思うようにもなった。

いつからか、というのは本当は正しくないかもしれない。五年間のアメリカ生活を終えて帰国した辺りから、この大いなる拾い物の人生を愉しもうという意識は何処かにあったのだろう。いやそれ以前に、そもそも拾い物だと認識し出したのは若干余裕の生まれたアメリカ最後の一年辺りだったかもしれない。だがそれらをリンクして明確に意識しだしたのは大学生活が始まってからな気もするし、そこまでの間に「目が覚めていく」あるいは「開き直る」という期間があったのだとも思う。

俺はアメリカの地でドン底を見た。別に不幸自慢をするわけじゃないが、人種差別の釜の底で白人と先任三等市民の日本人の垢を舐めて数年を過ごしたのは事実だ。幸い学校を移ることで釜の底からは脱出し、滞米最後の方には多少なりともあの国を愉しむ余裕も生まれたのだが、そこまでに染み付いた劣等感は消せるモンじゃない。孤独であったが故に英語力は伸び悩んだし、語学力がない故に孤独でもあった。……が、今思えば少なくともその時既に、少々タガは外れ始めてたような気もする。ああ、自分は生き延びた。生きて生活できる場所に辿りついたのだという心からの安堵は、脱出が自分の意志や努力とは何の関係も無かったが故に、その後の人生を拾い物と捉える発想の基になったのだろう。

とはいえ、俺にあの国に残るという選択肢は無かった。語学力の問題もあったし、何よりWASPの世界を見せ付けられた俺に、アメリカに人生を捧げる気分など生まれようはずもない。となれば日本の大学の帰国子女枠を狙うしかないのだが、これは背水の一発勝負であった。一浪したら帰国枠ではなく通常枠、日本の学生と受けてる教育の領域が違う以上不可能に近い。とは言え前述のようにアメリカには帰れない。そして日本企業はアメリカの高校を義務教育であるという一点において学歴とは認めない。つまり失敗したら俺は日本の義務教育たる中卒扱いである。死ぬ。逆に入ってさえしまえば卒業できずとも大学中退。初回必中の覚悟を決め込むしかなかったのである。

……で、何とかなってしまった。

しかも。アメリカにおける敗残者であり、日本時代でも転落街道まっしぐらだった俺にとって、その何とかなってしまった結果はそれまで思いも及ばなかった到達点であった。まぁそりゃあ英語面等で苦労は積んだし、確かに最初から後が無い崖っぷちでの勝負を乗り切ったとはいえ、それらは言うなれば生きんが為の足掻きであり、意識して行うスキルとしての努力、いわゆる受験的な努力とも違うし、人生を意識的に切り拓く意欲や意志とも本質的に違うものだ。

故に。もうこの時の心境は如星が愛してやまないマクスウェル君そのものであった。

くくくくくッ! この私がッ! 鬼子と呼ばれ忌み嫌われた食い詰めものの成れの果てが大司教だと!

──マクスウェル「大」司教サマ、ヘルシング6巻

この小人っぷりが最高に似てる。げふん。……さておき、努力の結果ではない、運と環境の成せる業で拓かれた道がこの時目の前にあった。それが今までの人生から見れば余りに「めっけもの」過ぎて、俺は現実感が何処か抜けてしまったらしい。タガが外れて舞い上がるってのとも少し違う。呆然、というのが近い。更に穿った見方をするなら、破滅も救済も所詮は運命の胸一つ、という皮肉な喜びもあったかもしれない。──とすれば。ならば、どうせ拾い物の人生だ、色々やれなかったことをせいぜい試してみようじゃないか。レコンキスタでも何でもやってやろう。次の破滅が来るにしたって、どうせ俺が何をしようと来る時は運一つで訪れるのだ──ま、今は当時よりもう少し分別があると信じたいが(苦笑)、その頃の俺の中には、漠然とではあるけど、そんな開放感と破滅に近い楽観主義があったように思う。

おまけに実際に帰国してみれば、数年間コミュニケーション不足で過ごしてきた砂漠状態の俺にとって、日本語が通じるという当たり前の事実は根腐れする程じゃぶじゃぶの滋雨であった。その後大学生活がスタートし、知的領域が近い人間と際限なく喋り倒せる快楽が押し寄せる。もうコレに俺は参ってしまった。ああ愉しい、愉しすぎる。これが拾い物でなくて何だというのだ。そして今自分がめっけもんの人生を送っているのなら、自分が何でもやってやれという気分になっているのなら、これはもう「更に愉しむ」という一事に向けるしかないと、そんな開き直りに俺は到達したのだろう。「だろう」というのは、当時何もそんなことを理屈で考えて行動していたわけではないからだ。後になって思い起こした時に、帰国時周辺にあった転回点とその心境に、改めて気づいたといったところである。

……で。その後、確かに俺は愉しんだ。井戸から放り出された蛙は大海の楽しさに溺れ、犬掻きの如き自分の姿など意に介する暇などなかった。他の愉しみ方を知っている人間を捕まえては、その片鱗でも舐めようと足掻いてみた。ああそうだ、俺は不幸ですら愉しんだ。誤解のないように言っておくが、決して不幸を感じなかったという意味ではない。むしろ凹む時は凹み、首を吊りたくなるような日々も、追い詰められて発狂しそうな日々もその後キッチリと降りかかってはきた。が、そんな時でも、暗く沈んで夜道をうな垂れて歩いている時でも、ふと心の何処かに、そんな自分を眺めて「これだから人生は辞められん」と呟いている別の自分が確かにいた。まるでアメリカで死んだ自分が、地上に置いてきた自分という駒を指しているかのように。それはまた心の別の何処かで常日頃思っている、如何なる不幸であれ、あの釜の底より酷いこたァあるめぇという確信に等しい楽観の表れなのかもしれない。実際、「アレに較べれば」という台詞を自分自身の過去に向けられるってのは、色んな局面で最高の精神的護符になったしね。

ああ、それ故に。俺はこれからも、自分が愉しいと思うことを躊躇わない。刹那主義とは少し違うし、かと言って一期一会や日々全力投球といった高尚な思想でもない。ただただ、余計な建前を持って生きる意味を、人生の何処か、というかあそこで亡くしてしまっただけなのだろう。運命の胸先三寸で幸も不幸も決まるというのなら、己の幸を測る物差しを、急変し得る自分の外側に持つなんて虚しいだけだと身に染みて分かってしまった。そして皮肉にも、不幸を知る事で精神的容量は大きく広がる。裏返しの纏足で押し広げられたその革袋を、時に人は「余裕」と呼び、その袋を満たす行為を「揺るぎない自分の価値観」とも評してくれる。だがその本質は、緩んだ袋を満たすには、結局生き急ぐ程の愉しみが一番なのだという諦観である。そう、楽観主義とは突き詰めれば諦観、愉しむ以外には何もないという諦観なのだ。だって革袋に嘆きを詰め込んでみせるなんて、もうとっくに飽きてしまったのだから。

今日の一滴="−−−−" (2007/01/26)


 
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