VERBA VOLANT, SCRIPTA MANENT.

如星的茶葉暮らし

■ 09月下旬 ■

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酒の一滴は血の一滴。茶の一滴は心の一滴。ネタの一滴は人生の発露。


 

【2008-09-24-水】

IAA, Luxin

もし一ヶ月間更新できなかったら「神慮の機械」は閉鎖しよう、と思っていたら本当に一ヶ月経ってしまいました。まぁ一ヶ月超であれば今日でもまだセフセフということで、とりあえず消滅させないためにも一筆書いておきました。I am alive, Luxin. 生きてます。

結局この一月何をやっていたかというと、前半は社内ででかい異動に自ら乗り出してみていたり、後半はちょっと普段とは違う形の原稿を書いていたりしてたのです。まぁ前者はいいとして後者。正直死にました。いかに自分が縛りのない形の原稿しか書いていなかったというか、プロットを練るだけに半年レベルの潤沢な時間を使ってきたツケが出たというか、まぁ、色々無理が出ました。ちょっと色々考えてしまうな。

なお物を書いていて、先日も書いたインプット不足がもう致命傷レベルに達している事が再確認されてます。やばい。だってこの一ヶ月、読んだ小説は多分3冊ぐらい。観た映画は2本だけ。ゲームプレイや映像コンテンツの消費は0分。もう小説からしてありえませんよ、ホント。なのにその間、3次元の嫁1体ブンドド1体が増えてんの。目も当てられない。ちなみに「嫁」という呼称は当方4次元(時間含む)の嫁が考案しやがりました。俺ジャナイ。

ちなみに俺は元々同人誌は半年積むけど、文庫本は「は? 積むとか馬鹿じゃないの? 買わなきゃいいじゃん?」と思ってたクチだったのに、今気がついたら文庫本のスタックが20冊超えてんの。俺馬鹿なの? 死ぬの?って状態ですね。ぎゃーす。

とりあえず10月一杯は日記以外何もアウトプットしない、を目標に頑張ります。溜め込もう。

(2008/09/24)

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【2008-09-26-金】

チップス先生、俺を斬る

およそ名文というものは一ページ目から目の覚めるような驚きと心地よさを与えてくれるもので、ヒルトン作「チップス先生さようなら」はまさにそのような珠玉の名作だった。100pほどの短い作品だからという理由で積読の山から取り出したのだが、結果として、小説読みの再開にこれほど相応しい一冊も無かった。清々しい、という言葉がぴったりの読後感である。

イギリスのパブリックスクールの「主の如き」老教師が振り返る生涯、といったストーリー仕立てなのだが、書かれたのが1950年頃、翻訳も初版は昭和31年(1956年)と、まずその昭和前半を端々から感じさせる軽快な訳文が古き良き英国の文化とピタリと合っていて心地よい。全体として詩でも読んでるような流れの心地よさがあり、もちろん恐らくは原文自体がこのような魅力を持っているのだろう。それにしても、あの頃の訳文ってホント独特のリズムがあるんだよねぇ。

おまけに、幼少期をシャーロック・ホームズやエルキュール・ポワロで過ごした世代に取っては、この古き良き英国の文化ってヤツは実に「郷愁を誘う」のだ。昭和後期、平成の生まれでも昭和初期や大正にノスタルジーを感じるのと似たような感覚なんだけど、それが同じ文字という媒体で迫ってくるだけに、軽快な文体と相まって、ますます幻想的ですらある雰囲気を醸し出すのだ。もちろん、そういう世代だけが感じるボーナス効果なのかもしれないが:)

それにしても、冒頭でも書いたように、この文体には本当に一ページ目から「斬られて」しまった。「へうげもの」の秀吉の台詞で「余はこの男の数寄に斬られた」という名カットがあるのだが、まさにあれを地で行く「斬られっぷり」である。

まずは上で書いた文体面で、夏コミ前から原稿等の都合もありギャルゲ系やラノベの文章ばかり読み耽っていたこともあり(こういう小説とは文章の目的自体が違いますから)、こういう「美文で勝負」というスタイルには「目が洗われた」感じ、一ページ目でいきなり疲れ目にどばっと目薬(メントールなし)を流し込まれた感覚を味わい、以降はあたかも澄んだ目で読み通せたような読後感を味わえた。

この一太刀に加え、この小説には能書きというか、導入めいたものがほとんど無いのが凄い。後から良く見れば確かに導入になっているんだけど、いきなり何の説明も無くチップス先生の引退後の日常の描写で始まり、問答無用で読み手を引き込んでいく。この「能書きなしで本題に切り込む」というのは、かの塩野七生もユリウス・カエサルの「ガリア戦記」を指して「物書きの憧れである」と言っているが、ささやかなる文章書きである自分にとっても、まさに「やられた」気分である。巧いなぁ。

書き手に腹を向けて全面降伏できる瞬間。これこそ、読み手の至福の時と言っても良い:) さくっと読めるボリュームですんで、最近目が澄むような小説読んでないなぁ、と心当たりのある方、そしてパブリックスクールというキーワードにグッと来てしまう森薫病な貴方、是非お勧めです。

(2008/09/26)

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【2008-09-28-日】

酒雑考:飲みにくさこそがツボの先

飲食好きでありながら、日頃料理の写真を滅多にとらない如星だが、酒瓶の写真だけは比較的多く撮っている。これは何より如星が飲んだ酒の名前をとことん覚えない性質だからであり、要するに備忘録として撮影しているからなのだが、それを措いても酒瓶のラベルというのは撮っていて楽しい。特にこうして同じ種類の酒、この場合は全部モルトウィスキーだが、それをいくつも並べて撮ると、各個性がより引き立つようだ。

こうして酒を並べていると、そのラベルのみならず、酒に文化あり、ということを強く思う。ちなみに写真の酒は、左2本がシェリー樽熟成かつ「シェリーくささ」が非常に強いもの、右から2番目は日本のあちこちの蒸留所の酒をブレンドしたという柔らかいモルト、右端が如星の大好きなピート香の漂うハイランドモルト。ぶどう氏はこのシェリー樽仕上げのモルトをこよなく愛しているが、如星はその香り、独特のオイリーさがキツくなり過ぎると今ひとつ好みから外れてしまう。一方のピート香、磯臭さとか、下手をするとヨードチンキと言われるこの香りも、受け付けない人はとことん受け付けないだろう。

「だがそれがいい」、そう言ってくれる人のためにこれらの酒はある。と言うより、旨い酒のほとんどがそういう癖の強さを持っている。こと蒸留酒において、酒というのは本質的に飲みにくい代物だ。良く「飲みやすい」ということが宣伝文句のように使われるけど、それは水っぽいとか、旨味が少ないという事と同義でもある。もちろん、慣れれば誰でも旨いと思える資質を持つ酒と、慣れてすら飲み手を選ぶ酒の差はあれど、酒はそもそも飲みにくさを乗り越えた先に理解のある代物、というのは覚えておいて損は無い。まぁそれを言えば、味覚だって深まっていくとそんなモンなのだけど。香菜や発酵食品、各地郷土ならではのアクの強さ、とかね。

様々な素材を醸し、多様な蒸留方法を用い、色んな樽に詰め、そして熟成年数も長短幅広く取り揃えて酒を造るのは、偏にこの癖の強さに多様性を兼ね備えさせる工夫と言ってもよい。「だがそれがいい」のツボに嵌れば惚れ込める、そんな癖の強さを多数取り揃えておく事で、人々がみなそれぞれの好みの酒を持てるという、それぞれの地方が独自に己の酒を極めた事で偶然生まれた、実に幸せな仕掛けである。「熟成年数の差は個性の差であり、優劣の差ではない」という言葉は、端的にその多様性への意志を感じさせてくれる。文化ってのは多様性の中にこそあり、万人受けばかりを狙う中には無いのだと、毎度強く思うのだ。

……酔っ払うと理屈っぽくなっていけませんな:)

(2008/09/28)

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