MACHINA EX DEO
如星的茶葉暮らし

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【2003-01-21-火】

【the Point & Height of View】

最近、物事に対して視野が狭くなったなぁ、ととみに感じる。特にインターネット関連の事象については、2〜3年前とは比べ物にならないくらい情報収集のアンテナ精度が落ちてしまっている。うーん、宜しくないね。

ま、単純に考えればもっともな話ではある。学生時代は曲がりなりにもネット関連の最新情報が集まる場所に足を突っ込んでいたのだから。だがそれ以外の方面でも如星的ネタの鮮度は大きく下がっていると思う。自分が昔書いていた日記を読むと、文章力はさておき、中身は今よりも面白いんじゃないか……と思うことさえある。

この若さで物事への新しい興味を失った、などとは思いたくない。事実、如星はたった一人であるのに、追いかけたい趣味は無数にあって困っているくらいなのだから:)。……と言い訳的理由を探し、結果「学生時代は言わば24時間中24時間をネタの弾薬庫として使えたから(夢や徹夜もネタにカウントするとして(w)」、という仮説を立ててみた。一方で仕事の話は非常にネタにしづらい──つまらん日常の話か、社外秘級の話しかない──事もあり、言ってみれば24/24で供給されていたネタが、14/24になってしまったということなのだ。

個人的には最近の匿名ファイル共有システムなんかも深く理解したいと思うし、キーワードを共有するはてなダイアリーなんてのもかなり興味はある。偶然にもMLという(議論媒体としては)旧時代的なシステムで大きな決断を下そうとしているコミュニティに属しており、掲示板系との比較なんてのもやってみたい。だが……だがそれらのネタに避ける時間は14/24なのでアリマスよ。

おおそうだ。そうに決まっている、素晴らしい結論だ……と思い込もうと思ったけど、残念ながら俺よりずっと忙しい上に各方面のネタを揃えてらっしゃる日記屋さんは多いのである。そうすると恐るべき真の結論はたった1つしかない──

Ragnarok Onlineのやり過ぎ。イヤマヂデ。

Summary="−−−−" Physical:-- (2003/01/21)

【2003-01-22-水】

【活字的ルーツ】

通勤時には必ず文庫を一冊供にしている如星。通勤は貴重な読書タイムであると同時に、活字がないと10分以上の乗車に耐えられないという因果な体質も理由であったりしますが:)

さてSFや陰謀モノに始まり、ローマ史や世界史、耽美系からコバルトに至るまで乱読を続けてきた如星ですが、今日は久しぶりに蔵書から中国史系の一冊を愛用のカバーに包んでお持ち出し。──自分は月に1〜2冊継ぎ足しつつも、基本的には手持ちを六読、七読と繰り返すタイプ。中国系歴史小説はもう何十読したか分からない程の歴戦の勇者が揃っているのだけど、最近新ジャンルを開拓していたこともあり、読み込みまくった歴史小説にはなかなか朝の手は伸びなかったのであります。

元々如星の読書歴は少年定番の「三国志」を「吉川三国志」から入ったのが始まり。しかし次に手を伸ばしたのがいきなり「小説十八史略」と、今思えば随分と無謀な進み方をしていたもんです:) まぁ一方で同じ少年定番「ホームズ」以降のミステリーはせいぜいクリスティで止まってしまったのに、中国史系は陳舜臣や宮城谷昌光等々に広く手を伸ばしていったのは、やはり自分の読み癖とウマが合っていたからなのでしょうな。

他ジャンルに浮気すること暫し。しかし先日ふと一冊の背表紙と目が合ってしまい、思わず本棚から引き抜いた小説は陳舜臣「曹操」。永遠の悪玉にして稀代の英雄(チェーザレ・ボルジアとかなり被ると思う)曹操を内面から扱ったという、久しぶりの中国史小説としてはかなり変則的な一冊だけど、同時に中国史特有の人間味が強く溢れている一冊でもある。行き帰りに時を忘れて読みふけり、同時に自分の活字的ルーツを思い出したのでした。やっぱ、いいね。

Summary="−−−−" Physical:-- (2003/01/22)

【2003-01-23-木】

【犬のように】

新しいことは、例えそれが何であれ、常に楽しい。

新しい趣味も、新しい仕事も、新しい人間関係も、楽しいことは勿論、辛くて仕方がない時ですら、それはいつも新鮮な驚きで満ち溢れている。一方で自分は結構安定志向であると思うんだが……だから変化を好んでいるというよりは、この世界にまだ自分の知らないフィールドがあるかと思うと放っておけない、という方が正しく如星の心理状態を描写できていると思う。

同時に、その全てをやり尽くすことは到底不可能なのだ、ということも判っている。だからこそ、今更手を出しても楽しめないんじゃないかとか、先人達に笑われないだろうかとか、自分には無理ではないかとか、そういう事は一切考えない。自らの時が尽きるまでやりたい事をやり続け、そして死ぬ時には「ああ、まだやりたい事はあるんだがなぁ」とだけ呟いてあっさりと逝きたいと思う──満足して死ぬなんて御免だが、かと言って執着もしない、といった風情で。かつて塩野七生の「神々の代理人」に登場する法王・アレッサンドロVI世の台詞にあった「犬のように生き、犬のように死ぬ」とは、私にとってはそういうことなのだ。

それこそが「何故生き急ぐのか」に対する私なりの答えであり、またこれからもそう生きていく所以である。説明になったかどうかはわからないけど、そういう、ことなのだ。

【要望にお応えして引用:我が友へ】

昔の日記では一度引用していたのだけど、こっちではしていなかった。長文引用ということで躊躇いもあるんだけど、あえて載せてみようと思う。問題あればご一報を。

フロリド、おまえは、あの修道士の説教の中に、こんな一句があったのを覚えているだろうか。人間の一生は全て、如何によき死に方をするか、その一事のためにのみ存在すると。こういう彼の考えが、マルシリーノ・フィチーノやピコ・デッラ・ミランドラのようなフィレンツェ一流の知識人を、またフィレンツェ以外の多くの知識人層を、彼の心酔者にした原因らしい。

だが、私は、サヴォナローラの非難を浴びているこの私は、彼の言うことよりも、別の言葉が気に入ってしまっている。いにしえのユダヤ人の言ったという文句で、“生ける犬は、死せる獅子に優る”というのだ。


こうやってローマを一望の元に眺めていると、歴史の中に浮いたり沈んだりしている多くの人々の死が、ひどく身近なものに思えてくる。華々しく散った死、恨みを込めた死、使命感に燃えて自ら選んだ死、そんな死は、歴史の表面に浮かんでいる。

ちょうどおまえと同じ年齢だったとき、私は、一人の獅子の死に出会った。枢機卿時代は、洞察力の非常に鋭い教養人だったが、聖ペテロの座についた途端、その使命を感じすぎ、思いつめてしまったのだ。その結果、十字軍遠征を提唱したが失敗し、怒りと絶望のために狂ったようになり、死んだ。

彼の死は、私の考えを大きく変えた。それまでは私も、華々しい悲劇的な死に憧れていたものだ。しかし、今ではそうは考えていない。死は、求めてはならぬ。受けとめるべきものだと考えている。


人間には誰でも、一生のうちにやり遂げたいと思っていることが、何かあるものだ。私もまた、いくつかの事をやり遂げた上で死にたいと願っている。だが、もしその中途で、神が、おまえの生命は終ったと言われたとしたら、私は、やりかけている仕事をそのままにして、神のお召しに応じるだろう。仕事の未完成を嘆かず、そういう自分の運命も呪わずに。

だがそれまでは、犬のようにでも生きるつもりだ。私は、必ず訪れてくる死を常に考えているほど、自虐的には出来ていない。死が肩を叩いたときは、自分を彼の手に任せるだろう。しかし、それまでは生き続け、自分の仕事をやり続けていくつもりだ。

犬のように生きるのだから、“良き死”とか、どういう死に方をしようかなどということには心を使わない。例え、路傍で野垂れ死にしようとも、悪評の中に死のうとも、また、死後に後世の非難攻撃を受けようとも、私には少しも関係のないことなのだ。


大切なことは、決して焦ってはならないということだ。反対に危険なことは、自分のやっていることが無駄かもしれないとか、未完成に終わるかもしれないと思いだし、それではならないと考えた末、焦って思いつめてしまうことである。“死せる獅子”の多くは、こういう人々である。

サヴォナローラは、四十五歳だそうだが、あの年代が一番危険だ。おまえの年頃だと、やりたいことが山ほど在り、それらの整理がようやくついて、仕事が軌道に乗ってきだした頃だ。力に溢れている年頃だ。一方、私の年代ともなると、ふてぶてしいほどの覚悟が出来てくる。自分の仕事が無駄であろうとも、未完成に終わろうとも、それを恐れずに、残された時間を、それまでと同じ、自分に合った速度で使っていく心構えが出来てくるのだ。自分の仕事に疑いを持つことは、狂信的独善的になるのを防ぐに役立つから、かえって良いのだとさえ思ってくるのさ。

だが、サヴォナローラの年代は、焦りが最も強く出てくる頃だ。当然の事なのだが。だが、それを越えられる人もいるし、越えられない人もいる。


“生ける犬は、死せる獅子に優る”とは、なんと楽しい言葉ではないか。だが、こんなことを言った男は、おそらく歴史の底に沈んでいるのであろう。

フロリド、おまえならどちらを選ぶ。やはり死んでも獅子になりたいかな」


─法王アレッサンドロVI世ロドリーゴ・ボルジア、1498年、68歳
法王秘書官フロリドの日誌より

──という設定で書かれた、作家塩野七生、1975年
著書「神の代理人」収録「アレッサンドロ六世とサヴォナローラ」より

Summary="いや、自分自身は特になんもだ。" Physical:89 (2003/01/23)

【2003-01-24-金】

【仕事とか原稿とか】

小刻みにスケジュールを確認しながら手を動かすってのは、まぁしんどいけど楽しいモンすな。ある意味締め切りに追われるのって愉悦なのかもしれない、と思う今日この頃。自分の効率と出力のバランスさじ加減が一番発露されるモードだから、自然やりがいが生まれるしね。

【今宵の新開拓:AW】

すっかり呑み友のぷく氏と新規開拓ということで、渋谷のバー「AW」に行ってみた。

前々から行こう行こうと思っていてタイミングを逃していた店。渋谷の中心街にありながら、巧く雑居ビルの地下に隠れている感じである(場所が場所だけに、妙な客が入ってくるとお互い困るしね)。渋谷で好みのバーというと少し歩く周縁部ばかりだったので、このアクセスの良さは使い勝手がいいね。

表にフロア指定のない「ただのデザイン」にすら見える看板を頼りに、地底にでも連れて行かれるのかというような少々不気味なエレベーターで地下に降りると、そこはもうAWの店内。10席程のカウンターはソファーチェアで、低めのカウンターと、バーテンが酒を置く一段高い台の二段構造になっている。スツールも悪くないんだけど、小さく静かな空間と相まって、ここはカウンターながら思い切りどっしりと落ち着いて寛げる感じである。

とりあえず二人とも適当に軽く振ってもらう(ぷ:ギムレット/る:キングスバレイ)。と、ツイと女性の粋なバーテン氏が出してくれたつきだしは、なんと大根の煮物。しかしこれが意外にも食後の一杯には優しく旨いつまみとなるのである……こんなところまでも寛ぎ系なのだ。いいね。(かといって、よくある嫌味な似非癒し系を装ったりはしてないのでご安心を)

客層は酒を知る人も知らない人も幅広く。その反面「アイラで何かモルトを」とか「グラッパかマールは何が?」のようにポイントで聞くと、こっちを完全に酒を知ってる人間とみなすのか、銘柄を並べて「どれにします?」風に微笑まれてしまうのでちょっと困った(^^;; 決して個々の名前を覚えている程詳しいわけじゃないからねぇ。でも素直に「それはどんな感じです?」と聞けば詳しく教えてくれるので、最終的には好みの品を頼めたのだけど。

途中で入れたモルトは、先日の「スプリングバンク21yr」を浅くしたような感じ、と言うだけあって──そうそう連日高い酒を呑めるかっての───ちょっと物足りなかった。今日を締めるにはもう少しガツンとしたのが呑みたくて、結局ロシア人風にウォッカを呷っていくことにした。けど、ブランデーを少し加えてあるというオールドウォッカを小さなグラスになみなみと注ぎ、グラスまで氷のように冷えたソレを一気に胃の腑へ落とし込む。……喉の奥から至福の味わい。直後に帰ろうと立ち上がったら5分で運動中枢をやられてたなんてのはご愛嬌である:)

というわけで、2フロア上に「渋谷」があるなんて信じられないような、静かな寛ぎの空間。酒もバーテンさんもフードもレベルが高い上に、周辺部まで歩かずにすむアクセスのよさ、おまけに地上に出てすぐにセガフレがあり、さっとエスプレッソを飲んで帰ってこれる。総合的な満足度の高い、非常に使い勝手の良い店でございました:)

Summary="−−−−" Physical:-- (2003/01/24)

【2003-01-26-日】

【降りたての雨の匂い】

降りたての雨の匂い、という言葉がある。

それを初めて聞いたのは新海誠作の短編アニメ、「彼女と彼女の猫」でだっただろうか。言われてみれば確かにその匂いは存在する。雨が降り始めた頃の、まだ地面が半ば乾いていて、傘を差さずに歩ける程度の雨の時にだけ匂う、埃とも水ともつかないソレである。この匂い、他人に話すと「ああアレね」という人と「なにソレ?」という人に明確に分かれてしまうのだけど。

降りたての、というだけあって、この匂いは長く続いた雨では決して漂わない。言うなれば地の匂いと水の匂いが出会い頭に混じり始め、水が地を凌駕する前の一時のバランスの上にのみ存在するモノなのだろう。──そう思っていたのだけど、例えば新宿のど真ん中のような場所では、相当大降りの雨になって初めてこの匂いが生まれてくる。一方で郊外の自宅付近では、上に書いたようなパラツキ始めで既に匂ってくるのである。

そう気付いた今日ふと思った。地の匂いと思っていたものは実は街の、人の生きる臭いそのものであり、例の匂いは水と地の合わせ目ではなく、雨と人の出会い頭の臭いなのだろうと。人の臭いの濃い都心では、きっと雨と均衡を取るのに時間が掛かるということなのだろう──いずれにせよ、ほんの一時しか味わえないこの匂いに、出会えた日はちょっと幸せなのだと思う。

物理学者辺りに聞けば、この不思議な匂いの元を教えてくれるのだろうか。もしかしたら心理学者なのかもしれないけど、まぁそんなことは大した問題では、なさそうだ。

【ひとりごと】

購入したプラネテス(3)を読みながら帰宅。これを読めたのが今日であったことは、幸いである。色々と見えなくなったり、見えすぎていたものを補整するいい機会かもしれないな。

Summary="−−−−" Physical:-- (2003/01/26)

【2003-01-27-月】

【プラネテス(3)】

「プラネテス」第3巻読了。

近年稀に見るストレートなSF漫画としてデビューしたプラネテス。ただ強烈なSF色は一巻がやはり白眉で、回を追うごとに人間ドラマの方向へとなってきているのが少し寂しくはある。……とは言え、やはりプラネテスの物語は「宇宙」という背景以外では語り得ぬもの。良質のSF物という肩書きはまったく揺るいでいないと思う。

そんなプラネテスの三巻目は、二巻よりもさらにテクニカルな面を取っ払った、人間心理に重きをおいた一冊になっていた。正直、ちょっと説教臭くて流してしまうページもあったのだけど(ってなると思ったからタナベは嫌いなんだよッ!(w)、まぁ「宇宙に出て行くことが日常」の世界で、それでも「宇宙に出て行けば帰ってこないかもしれない」という怖れを抱き続ける人々がきちんと描かれていて面白い。個人的には最後のゴローさんの話が一番好みである:)

最近谷甲州氏のSFを読み返し始めていることもあり、三巻も良作ではあるけれど、一巻で感じた宇宙への強烈なロマンとセンスオブワンダーよもう一度!と思ってしまうのも無理からぬことである。ただし、巻末の4巻予告を見ると……話の方向は結構変わるようで、「地に足ついた荒唐無稽」な世界を再びちょいと期待しておきましょう。

Summary="−−−−" Physical:-- (2003/01/27)

【2003-01-28-火】

【上野〜上野〜】

仕事の都合で水戸方面に出ることに。上野から常磐線を北上する「フレッシュひたち」ってことで、実に久方ぶりに長距離特急に乗ることになった。

あまり電車で遠出をする機会こそ少ないけれど、如星は「長距離列車のターミナル駅」ってのが妙に好きなのだ。出発列車表示板の変わる様。指定席切符を片手に乗るべき車両を探す人々。何よりカーブのない直線のホームに鎮座する特急列車の滑らかな車体がと、駅全体に溢れる「いかにも今から遠出をするぜ」という雰囲気。特に旅行好きというわけではないんだがねぇ(^^;;

しかしこの上野駅、駅到着時のアナウンスが「うえの〜」という、あの間延びしたノスタルジックなトーンになってるんすねぇ。芸の細かいことでびっくり。……しかしそれが女性の合成ボイスなので違和感ありまくり。こんなところぐらい熟練駅員のリアルボイス録音でも使えばいいのに:) 詰めが甘いのぅ……。

往路道中外を眺めていると、東京から離れるに従って、何処か懐かしい車両や駅の雰囲気が目に飛び込んでくる。実は如星の母方の実家は茨城にあり、幼い頃は常磐線で田舎帰りをしたものである。その後車の利用が増えたし、電車で行くにしても東北本線を上るルートに切り替えていたので、常磐線北上なんてのは実に十数年ぶりと言ってよいだろう。昔見たあずき色の常磐線車体がまだ一部就役してるのを見てちょっと嬉しくなったり、常磐線から伸びるローカル線の鄙びた車体にドキドキしたり。空は快晴、遠く車窓より眺めれば、筑波山の尾根が遙かに青ずんだ霞みとなって地平線を隠している。まったく、絶好の列車旅行日といえる日だ。

これで社用じゃなきゃなぁ……( ´・ω・`)

Summary="帰途は寝倒し。偏頭痛。" Physical:78 (2003/01/28)

【2003-01-30-木】

【ぼやき】

だから何度も言うんだけどさ、潜在能力はありそうだとか、努力や根性さえあれば並以上の力を発揮しそうだとか、そーゆー台詞にあまり意味はないのですよ。 だって努力や根性は能力のひとつなんだから。どんなに潜在能力があろうと、それを開花させる術を持たぬ/持つ気がない人間は潜在能力がないに等しく、努力という資質が欠落した人間は所詮大きな結果など残せはしないのですよ。期待するだけ無駄ってモンです。

まぁ一方で努力が常に正しいなどとは思わないけどね。この世には確実に「無駄な/全力で後向きな」努力が頑として存在しているわけだし。でもま、それでも努力できるのは才能ですよ。やっぱり。

頭の良い怠け者は司令将校に、頭の良い働き者は参謀将校に、頭の悪い怠け者は連絡将校に、

───頭の悪い働き者は銃殺にせよ。

──佐藤“御大”大輔

Summary="人生楽ありゃ苦は嫌だ" Physical:84 (2003/01/30)

【2003-01-31-金】

【キャラクター・ストライク】

「同人上がり」と呼ばれる漫画家たち(上がり、と言うか堂々同人活動並行中の人も多いが)の作品を何本か読んでみて、共通して感じたことがある。それはキャラクターの描き分け、特に初期のそれが出来ていないまんま商業誌に出してる人が多いなぁ、ということであった。

これは二次創作上がりの通弊なんだろうか。二次創作であれば、最悪髪型と服装さえ認識させれば、あとは読み手が勝手にそのキャラを原作から思い起こしてくれる。だがオリジナルの場合、多少の外観描き分けと名前紹介程度で読み手にキャラが伝わるわけがない。登場したキャラの性格等を含めた「存在感」を作品中で読み手にアピールしていかなければ、一体誰が喋ってるのか分からないような作品になる。だからこそ、描き分けに慣れていない内は、一人一人をゆっくりと描写する時間が取れるように一人ずつ登場人物を増やしていくものだ。

それなのに、こういう作家さん達はいきなり4〜5キャラを同時に登場させ、普通にドラマを始めてしまう。それらのキャラ紹介たるや、最初の登場時にボックスに名前書きがしてある程度だというのに。おかげで最初のほうのキャラ紹介ページと作品中を行ったり来たりしながら、今喋ってるのが誰かを思い出しながら作品を読む羽目に陥るのである。例え二次創作同人上がりとはいえ、多少はオリジナル同人を出してる経験もありそうなものだけど……ま、逆に大手クラス経験者ともなれば、そこの本と言うだけで売れてしまうワケだから、描き分けなんぞに気を配る必要はなかったんかなぁ、などと邪推もしてみたり。

よくまぁこれで編集が通るもんだ、とも思ったけど、ま、これまたメディアワークス程度であれば、「絵萌え」さえあれば一定数売れることを見越して数を打つポリシーを取ってるんだろうなぁ、と邪推に邪推を重ねてみるのでありますた。ともあれ、描き分けのみならず話作りの点においても、二次創作作家上がりの作品でコレハ!と思うような漫画にはなかなか当たらないのが現状のようである。画力はあるんだけどねぇ、ううむ。

この辺、逆にコミティア上がりの作家さんは強かったりするのかねぇ? 確かにティアで売れている人は、力量という観点からはそこらのイベントの壁サークルなんぞとは比べ物にならない実力を持っているからなぁ……。

【酒は百薬の長】

夜、四谷の友人宅で「残飯処理」ならぬ「残酒処理」。

といっても大五郎を消尽するようなソレではなく、「最近酒に弱くなった」とぼやく彼が自宅に溜め込んだ数々の旨い酒を古いものから飲んでしまおうというわけである。幅広い種類の酒好きになってしまうと、ついつい各種代表の一本を買ってきてしまい、消費ペースを軽く上回ってしまうのはよくある話なのだ。うーん耳が痛い(^^;; ま、そんなわけで若干のつまみと数多の酒瓶を卓上に並べて、男どもでマターリ呑み会。時にはこういうのもいいっすねぇ。

呑んだ酒リスト
  • どこぞのグラッパ(非常にグラッパリー・グラッパ)
  • COLOSIA(ポートワイン)
  • シーバスリーガル・センチュリー(丸めのモルトブレンド)
  • ボウモア12年(アイラモルト超定番)
  • どこぞのリモンチェッロ(イタリアのレモンリキュール)
  • ノールズジン(樽熟成で木の香り漂うレアでウマーなジン)
  • ハプスブルグ・アブサン(アブサン解禁で登場した80度の化け物)
  • 余市シングルカスク20Yr(ニッカ余市土産の現地販売モノ。ガツン。)

こうして並べてみるとよくまぁ飲んだものだ……(w)。ま、一杯を少なめに出来る家庭呑みならではの芸当ではあるけどね。それよりも、これだけの酒を余らせておく氏の酒買い癖にも困ったものだ。こういう実に困ったコトなら今後もどんどんやって欲しいね:)

Summary="公私御機嫌。" Physical:89 (2003/01/31)

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