VERBA VORANT, SCRIPTA MANENT.

「Fate/staynight」短編小説

維如星ウェイ・ルーシン

夏は思い出の季節。
無限の青い空は人を外界へといざない、
灼熱の大気は人を静かな影の内に休ませる。

外と内とが繋がる盛夏はただただ苛烈に見えて、
その実、活力と休息を併せ持つ季節であり、
故に甘い記憶を残すに最適な日々となる。

されど、それは真夏に揺らぐ蜉蝣にも似て。
熱に浮かれた夢は久しく留まりがたく、
醒めてなお記憶をカタチに残すは、ただ人の意志に拠るのみ。


───甜く儚い夏の日々。
   さあ、真夏のお茶会を、始めよう。

Fate/staynight After Story

Fate/estate dolce

維如星ウェイ・ルーシン

1: Prologue

士郎の夏、日本の夏

一日が、一月が、一年が過ぎて。
そしてまた、冬が終わりて夏が来る。

目を閉じれば、浮かんでくるのは静かな朝。
道場に張り詰めた白く冷たい空気。
何処までも高く、手の届かぬ澄んだ空。

同じ時を過ごし、同じ叶わぬ夢を見て、共に同じ道行を駆け抜けた、凛とした表情で冬をまとった金色の少女───


「シロウー! シロウってばいないのー?」


騒がしく自分を呼ぶ声で意識が戻る。

目を開ければ、目の前には白く眩い庭。
喧しい蝉の声を運んでくる揺らいだ空気。
深い青を背にした、触れそうな程大きな雲。

そして聞き間違えようのない銀色の少女の声と、すっかり耳に馴染んだ軽い足音が衛宮の屋敷に響いていた。

……暑い。我ながらどうかしてる。

目を閉じていたのはほんの僅かな間だったけど、その間にも真夏の太陽が全身にじっとりと汗を浮かばせていた。

そう、本当にどうかしてる。ふと見上げた空、雲の合間に覗く青があまりに遠かっただけなのに、クソ暑い縁側に腰掛けて瞑目し、汗まみれになりながら冬の空を思うだなんて。

(っと。何してたんだっけ、俺)

見ればイリヤは丁度縁側に出て、そして決して縁側の日向には出ないよう、猫みたいな動きで向かってくる所だった。

意識はようやく現実に返り、自分の置かれた立場を再認識する。
……えーと、マズい。あの顔は間違いなく拗ねている。台所で昼飯を作ってるはずの俺がここにいるのも気に食わないだろうし、おまけに多分呼ばれてたのは一度だけじゃない。

うむ、これはマズい。
とりあえず笑顔で手を振っとこう。

「お、早かったなイリヤ」

ひらひらと、我ながら白々しく──この手の誤魔化しがまったく通じないのはもう分かってるんだけど、まあとりあえず時間稼ぎである。……ただでさえ暑い日のイリヤは機嫌が悪い。このままでは石垣の反射をまともに食らうこの時間に、アイスの一つも買いに行かされる羽目になる。

もちろん、買いに行ってやること自体は別に構いやしないんだけど、なだめるために行くくらいなら喜ばせるために行ってやりたいし、第一アレがアレと挟撃体制にでも入られたら夏の疲れも倍増である。ならば、こういう場合の戦術はただ一つ、先制を取って流れを曲げて───


すかぽーんと。黄色のスクーターメットが俺の後頭部を直撃した。


「へへへーん、背後取ったり士郎! わたしたちの昼ご飯をサボって肌なんて焼いてるから天罰が降ったのだ!」

……とっくに挟撃されていた。

「別に焼いちゃいねえ! ちょっと考え事してただけだっ。つーかメット全力で投げるかフツー?相変わらず子供みたいな攻撃しやがって」

頭をさすりながら立ち上がる。一方縁側の両端から侵入した藤ねえとイリヤは、ささっと和室の日陰に入りつつ、二人して俺を見下ろすポジションを取っていた。

「陽動を提案したのはわたしよシロウ。だってお昼に呼んだのってシロウの方なのに、来てみれば台所は空っぽだし」

さらりと髪をかき上げながら、悪戯っぽくわざと作った呆れた表情で俺を見下ろすイリヤ。仕込みはもう終わってるという発想はないのか……と思いかけて悟った。この顔は分かってて藤ねえの遊びに乗ったクチである。

「大体見事にやられといて子供っぽいとか、ニッポンダンジのクセに情けないわ」

前門の虎、後門の悪魔。ま、今や虎は完全に悪魔の子分なんだけど。普段は藤ねえが一方的に遊ばれてるんだけど、こういう時だけは妙に噛み合うタッグになるのだ、この二人は。

ともあれ、二人の襲撃を控えてぼんやり考え事などしてしまった俺の負け。迎撃において油断した愚か者は、他に敵するは遠坂のみという藤村家コンビのペースにすっかり組み込まれ、かくして俺にはこれから下僕としての二時間が約束されたのである。喝。

春が来て、冬が来て、また春が来て──冬木の町を騒がせた聖杯戦争から一年と半分が過ぎ、そして今、季節は二度目の夏である。

イリヤは相変わらずこっちに居座っている。もはやすっかり藤村家の一員のような顔をして、下手をすれば極道の跡取りになってしまうのではという勢いだ。……反面、遠坂のサポートがあるとは言え、相変わらず身体には不安を抱えている。そのせいか、時にふさぎ込むことも多かったし、何処か自分の寿命を達観してるところもあったイリヤだけど、例の冬の一件以来、吹っ切れたように明るさを取り戻している。特に最近、俺に向けられる甘えっぷりは半年前までの比ではない。それは純粋に嬉しいんだけど、時に桜や遠坂の視線が痛く、なんか妙な誤解をされている気がしなくもない。

一方、俺と遠坂は今年の春に学校を卒業。

今はと言えば、遠坂の方は流石の名門様、あの「時計塔」魔術協会の総本山たるロンドンに留学が決まっている。なんでも「遠坂の後継者」として向こうから推薦招聘されているとかなんとか。

で、あれ以来遠坂について魔術を学んでいる俺は、推薦招聘の特権をもって、その弟子というか、おまけというか、いや遠坂の表現を半ば借りるなら御付の下僕として、正式な協会員ではないまま向こうで学ばせてもらえることになっていた。

とは言え、遠坂が言峰の後任神父さんと協力している聖杯戦争の後始末だって完全に終わったわけではない。時計塔への留学手続きやら協会での権利関係の整理にも時間が掛かるそうだし、それに冬木の管理人としての留守中引継ぎ等々の仕事も山積みらしく、卒業以来あいつには忙しい日々が続いている。実際、渡英できるのは秋口か冬頃になるらしい。

正直任せきりで悪いとは思いつつ、俺には手伝えることもあまり無い。幸い遠坂家も衛宮家も、しばらく食いつなぐぐらいな資産はある。俺はそれを時折のバイトで補いつつ、「ロンドン行きまで余裕ができたんだからもう少し見られるレベルにしておきたい」という師匠のご意向により、この一年にも増した厳しさで魔術の教育を受けているというわけだ。

ちなみに渡英と言えば当然英語力が問題になるのだけど、遠坂曰く「あんなもの構造を把握したら後は記憶だけでしょ? そんなことに時間を掛けてたら許さないからね」とのきついお達し。まあ実際、既に魔術師の基礎としてみっちりとラテン語を仕込まれてたこともあって、基本的なレベルには比較的あっさりと到達したのは確かである。

語学のみならず、魔術の師匠としての遠坂は、その、なんと言うか、……えげつない。遠坂の性格は聖杯戦争の時に共闘して理解してたつもりだったけど、完全に自分の弟子と認識してからは更に容赦がなかった。

例えるなら、確かに今までの自己鍛錬だって死ぬ思いはしてきたけど、それは自力での疾走なわけで、死ぬことこそあれ速度には限りがある。速度でだけ考えるのなら、首に縄を掛けられてフェラーリで引き摺られるのにはどうやっても勝てない、と言うか……。

あ、もちろん未熟な俺にはそれぐらいが丁度良いのは分かってるし、今回の件といい遠坂には頭が上がらないワケなのだけど。


ともあれそんなわけで、衛宮邸は桜と藤ねえに遠坂とイリヤを加えた、相変わらずの集会場と化している。毎朝の食卓にはイリヤが増えたし、あの遠坂ですら週に何度かはウチで飯を食い、時には料理の腕を見せつけて帰ってゆく。

ただ、この中じゃ一番まともな人生に進んでいる桜は今普通に大学生で、冬木からは少し離れたところに通っており、普段はなかなか顔を出せなくなっていた。一人暮らしを勧めても、頑なに冬木から通うのをやめない桜には何か思うところがあるらしい。ま、ここ数日の夏休み等、休みの日には普段の不在を取り返さんとばかりにウチに来て、遠坂の追随も許さぬ爆走上昇中の腕前を食卓に振るってくれている。


こういうのを、充実した日々というのだろう。

そんな折にふと、さっきのように冬の空を思い出す。夢中で駆け抜けた、一月にも満たない僅かな時間。共に見た夢、失った夢。魔術を学び、自己を鍛練し、それでもあの日から、自分は少しでも前に進めているのだろうか、という不安。進むしかない、という思い。

ロンドンに往くのも、彼女に誓った道を歩む一歩であると信じてはいる。でも時折思うのだ、それから俺はどうするのだろう、と───

「シロウ、わたし海に行ってみたい」

さておき。すったもんだの挙句、フルールの夏季限定シャーベットの調達を約束させられ、ようやくの昼飯となった後。すっかり慣れた箸使いでそうめんをすすり終えると、イリヤは唐突にそう口を切った。


今日の昼飯は定番にしてお手軽な素麺だけど、これでも麺つゆにはそれなりに手を入れている。藤村の本家で毎年漬け込んでる梅はなかなかのモノで、これをひと手間掛けて裏漉しし、ダシと合わせれば夏バテにも効く立派な品になる。

未だに薬味の茗荷だけは入れないけど、イリヤも梅の風味はすっかりお気に入りらしい。しばし無言でもきゅもきゅと箸を動かす様を見ていれば、毎度ながら料理人冥利に尽きるってもんである。


……で、約一名、目の前の自分用大ザルを怒涛の勢いで開け、予定があるからと爆風のように去っていった猛獣を除き、のんびりとした昼飯がひと段落した辺りでのイリヤの台詞だった。

「海? それ海浜公園辺りに遊びに行きたい……って意味じゃあないよな」

ぬるくなり始めた麦茶で喉を流し、とりあえず繋ぎの返事をする。

「そういや去年の夏はまだ後始末だの何だので何処にも行けなかったもんな。でもイリヤ、身体の方は大丈夫なのか?」

実際、彼女が海に行きたいなんて言い出すのは意外だった。元々身体が弱いイリヤだけど、熱や直射日光には特に弱い。綺麗な銀髪や白い肌、そこに映える赤みがかった瞳も、要するに色素欠落傾向の表れなのだから。

「んー、リンのおかげでだいぶ耐性はついてきたし。それに前から、一度でいいからちゃんとした海で遊んでみたかったんだもん」

ちゃんとした海。イリヤはそんなものも知らずに今まで過ごして来ていた、という事実を改めて思い出した。

ちなみに冬木市は港町であり、当然「ちゃんとした海」がそこにあるわけだが、確かに、イリヤが今言う「海」ではない。そもそもいくら冬木の気候が温暖とはいえ、所詮は北の海。海辺には公園や水族館もあり、潮風を楽しむことこそできるが、そこに親しみ遊ぶという雰囲気ではない。

そして何より、いかんせん冬木湾は「天然の良港」というヤツなのだ。それは即ち、整備するまでもなく最初からそれなりの深さを保っている、ということであり、波打ち際で水と戯れる、なんて芸当が可能な場所はほとんどないのである。

「ま、確かにロンドンに行っちまえばそんな暇もなくなるだろうし。少しくらい息を抜いてもいいかもな」

「うんうん、シロウってば話が早い!」

華が咲いたよう、とはこういうことか。

俺は相変わらずイリヤのこの笑顔に弱い。子供の明るさと銀色の綺麗さが相まって、こういう時のイリヤはすごく、その、反則的だ。

「……よし、桜も休みに入ってるし、後は遠坂の予定でも聞いて……って待った。そういや遠坂が妙なことを言ってた気が……」

それは夏に入る前のこと。あいつは魔術の師匠でも、近所の友人でもなく、かつての共闘者としての声で俺に告げていた。

(多分この夏には、一緒に一つ大きな仕事をしてもらうことになると思うわ。今はまだ詳細は話せないんだけど……。とにかく、今年の夏はあんまり大きな予定を入れちゃダメよ)

「んー、こりゃちゃんと遠坂に聞いてみないとマズいかもな。なんか重要な話って言ってたし」

そう思い出しながら半ば独り言のように呟く。イリヤは遠坂の名前が出ると、途端に何故か不安そうに目を逸らした。

「あ……うん、その、シロウが無理だったら別にいいんだけど……」

「ま、予定つっても一日二日ぐらいは大丈夫だろ。心配すんなって、ちゃんと連れてってやるから」

「う、うんっ! えへへ、やっぱりシロウってチュウシングラね! えーっと、期待しないで待ってるから!」

……いや、そこは期待して、だ。そもそも忠臣蔵とか、そんな果てしなく間違った日本語を何処で覚えてくるんだか。

しかし、どこか取ってつけたようなイリヤの喜び方が気になる。気になるが、まあイリヤなりの遠慮なんだろうと心の中で片付けた。

「ちょうど午後に遠坂がウチに来ることになってるしな。その時に一緒に聞いてみよう」

遠坂のことだ、人が苦労して駆け回ってる時に遊びの相談とは何事か、なーんて突っ込まれる危険が無いわけでもない。元々イリヤのメンテも兼ねて来るわけだし、とりあえず彼女が隣にいれば、共同戦線ぐらいは張れるだろう───

「へ? 海に行きたい?」

というわけで、夏のけだるい午後のひと時。当然のように汗だくで歩いてきた遠坂にラズベリーシャーベットを差し出し機嫌を取りつつ、向こうの用件の前にさっさと切り出してみた。

「そうなんだ、ほら、イリヤは海水浴とかしたことないだろ? 来年の今ごろはイギリスだし、息を抜くのもいいかなと思って」

口ではなんだかんだ言いつつ、遠坂も結構イリヤを気にかけてるのは知っている。無下に却下したりはしないだろうけど、慎重を期すに越したことはないのだが、

「ふーん、海ねえ……」

遠坂はなにやらぶつぶつ言いながら思考モードに入ってしまった。
予想外の反応である。

「結局向こうに行ってハイできましたってワケもないだろうし……あの人、父さんの名前に反応してたから多分……」

「おーい、遠坂」

「……それなりにショックも……いや巻ききってるぐらいの方がいいのかな……息抜いた方が安定も……そりゃわたしだって……」

「とーおーさーかー」

思考ループは遠坂のお家芸とは言え、こんなことで長いこと引っ張られても困るんだけどな。

「ああもううるさいっ! 算段立ててるんだから少し黙ってて!」

「いや、とりあえずその手にもったアイスを食え。溶け落ちるぞ」

お約束。遠坂は慌てて運びかけてたスプーンを口に放り込むと、それをくわえたまま数秒。それで考えがまとまったかのような表情で、あっさりと回答した。

「ま、いいんじゃない、ちょっとアテが無いわけでもないし。一年半後始末で苦労したんだから、それぐらいついでに遊んでもいいかもね」

アテ? ついで?

自己完結でもしてるのか、ワケのわからない遠坂の台詞を問いただそうとする間こそあれ、そのまま遠坂は隣のイリヤに向き直り、真剣な表情で口を開いた。

「イリヤ、例の話、結局タラマスカに頼むことにしたわ。アレだって所詮協会の一部だけど、本部に知れたらこっちの記録も手に入らない。お互いロンドンから隠蔽する理由ができたってわけ」

一方のイリヤは一瞬呆けたような顔をして、それからやはり魔術師の顔になって遠坂を睨んだ。

「……本気? 当然表の学者連中じゃなくて、出張って来るのは封印部門の狩人どもでしょ? 途中で何をやりだすか分かったものじゃないわ」

イリヤには完璧に話が通じてるらしい。

「あ、そこは大丈夫。いくら何でも、極東に封印機関を招き入れるような真似をしたらこの国に居られないわ。特に今現在進行形で『赤』の人形師がこっちに来てるって噂もあるし……わたしだって命は惜しいもの」

手をひらひらと振りながら、遠坂は続ける。

「今回はちょっと向こうに出向いて構築式を持ち帰るだけ。それぐらいの目算がなきゃ、切り札の戦争記録を出したりはしないわ」

はあ、とため息をつき、そして普段のイリヤからは想像できないほどあっさりと、彼女は遠坂の台詞を飲み込んだ。

「リンがそう言うなら信用するわ。……そっか、時計塔の目を避けるってコトは、封印機関の連中と会うのは『獅子』の方ね。……うん、あそこは一度行ってみたかったし、そういう「ついで」なら許せるかな」

口元に軽く指を当てて、さも納得したかのようにうなずくイリヤ。なんだかんだ言って自分の身体をいじらせるぐらいだし、遠坂のことはかなり深く信頼しているようだ。

いや、俺だって遠坂への信頼じゃ負けてないが、それはさておき。

「えーと遠坂でもイリヤでも、とりあえず解説してくれ。何が何だかさっぱりだ」

と、俺は素直に救いの手を求めて声を上げた。

あ、と二人の少女が顔を見合わせる。

「リン、この話ってシロウにはまだ」

「う、まさに今日その話をしに来たトコ。向こうの出方も読めてなかったし、第一士郎はあの子のこととなると目の色が変わるもの。隠し事にはホント向かない体質なんだから」

はあ、とイリヤと似たようなため息をつき、遠坂は俺のほうを振り返る。

「っと士郎、今日の本題に入りましょうか」

遠坂は何事もなかったかのように本題とやらに入り始めた。

「詳しい話はここじゃ危ないから、後で遠坂邸に来てもらうとして。とりあえず予定だけでも押さえておきたかったのよ」

む、全然説明になってないじゃないか、と俺は憤然と質問を繰り返す。

「予定? いや遠坂、結局海に行く話はどうなったのかまだ聞いてないぞ」

「いいからいいから。切り出す手間が省けたわ。……ええ衛宮くん、三人で海でも楽しみに行くとしましょ。そうねー、桜や藤村先生を連れてくわけにはいかないのが残念だけど」

遠坂はいつもの勝気な笑みを浮かべ、一方的に話を進めていく。ちょっと待て、桜や藤ねえを連れてかないって、そりゃちょっとした暴動が起こると思うんだが───

「日程はあとで確定させるわ、多分一週間以上いる事になると思うけど。あ、桜や藤村先生の説得はわたしがやるから心配しないで。そうそう大事なこと、士郎、パスポートちゃんと持ってる?」

こちらの思いも何のその、遠坂の台詞は止まらない。いや説得は助かるけどそもそもどうせ遊びに行くなら桜だって連れて行きたいし、一週間ってあの遠坂が豪遊を許すってのはどういう風の吹き回し、ああ、パスポートなら親父のいいつけを今でも守ってて、いつも切らさないようにしてるけど───


思考がそこで一時停止する。

……パスポート?

1: Under the azure skies

海の都の物語。

「うわあ、シロウすごい! 本物の海だよ!」


目の前の景色を心からの弾む声に変えて、イリヤが波打ち際を跳ね回る。

雲ひとつ無く乾いた遠い空、水平線にかすかに揺らめく小さな船、穏やかに泡立ち消える波の音。まるで旅行のパンフにでも出てきそうな光景には、イリヤならずとも自然と心が緩んでいく。白をまとった可憐な少女が、その舞台で踊る様はまるで夢のよう。……彼女の素直な台詞には、冬木の海の立場がまるでないけれど。

でも確かに、この眺めは冬木の港が見せる北の海とはまったく違い、また例えば、よく綺麗な海として描かれる、南の島の澄んだ碧海の美しさとも異なっている。

目の前に広がる海は澄んでこそいないが、逆に頭上の深い空と対になり、互いの色を溶かし合わせたかのような蒼い深みを持っている。吹き抜ける風は南国のそれよりも心地よく、水面は大海にはない穏やかさを以って美しさを主張する。


「しっかし……イリヤの台詞がこんな形になって現実化するなんてなあ」

「ふふん、こういうのも悪くないでしょ? どうせやるなら優雅に全力で、よ」

太陽の光を惜しむかのように、手に支えるビーチパラソルは未だ開かず。イリヤと揃いの白いサマードレスに身を包んだ赤い彼女もまた、しばし蒼の世界に心を奪われていた。


かつて欧州を拓いたローマ人が「我らの海」マーレ・ノストゥルムと呼び、今彼らが学ぶ魔術体系の祖である西欧文明の揺籃を支えた「地中海」の一。これこそが、かつてこの街に莫大な富を運び、そして数多の魔術師がその都を目指して昇り来た、アドリア海と呼ばれる紺碧の世界だった。

海に行きたい、というあの一言から半月後。

「はじめまして、シニョリーナ・トオサカ」

空港に降り立った俺たちを出迎えたのは、黒のスーツに身を固め、赤味の入った長いブロンドをたなびかせた長身の女性だった。うわ、美人。

「今回案内役を勤めさせていただくルチア・ヴェニエルです。よろしければルチアと」

彼女は遠坂に向かって右手を差し出し、遠坂も純優等生モード100%の笑顔で握手を交わした。

「はじめましてルチア、ならわたしの事もリンでいいわ。なんでも父のお知り合いだとか」

「ええ、マエストロ・トオサカには時計塔時代に色々お世話になりまして。トオサカの当代をお迎えできて光栄ですわ」

とすると、見かけよりも随分年上なのかもしれない……などと士郎が野暮な感想を抱いてるうちに、ルチアはイリヤの方に目を向けた。

「こんにちは、シニョリーナ・イリヤスフィール。……その、今回はアインツベルンの名代としては扱わぬよう言付けられておりますが、間違いございませんね?」

一見同年代にも見える遠坂に対するよりもよほど慎重な姿勢で、ルチアはイリヤに一礼した。

「それで結構よ。今回はそちらの胸を借りにきたんだもの、アインツベルンの名前を振りかざしても益は無いわ。……で、わたしもルチアって呼ばせてもらうから、そっちもイリヤにしてね。しにょりーないりやすふぃーる、なんて舌を噛みそうだから」

淀みない余所行きの言葉から、あっさりといつもの口調に切り替るイリヤ。初対面にしては意外だな、と思ったが、それがルチアの緊張を解こうとする彼女なりの配慮なのはすぐに分かった。

「……助かります。イリヤ、今回はリンの客人として存分にもてなさせてもらうわね」

明らかに肩の力を抜いた様子でルチアは微笑んだ。アインツベルンの名前というのは、やはり効くところでは効く類のモノらしい。

ちなみにここまでの会話は全てイタリア語。それを俺が一応理解できているのは、イタリア語が遠坂に叩き込まれたラテン語にかなり近いのと、生来の構造解析能力を加味した、ここ一週間の詰込みの賜物である。

「さて、では参りましょうか。船を待たせてありますので」

って、待て。その、完璧に俺を忘れている。

「あーその、ルチアさん? 俺は……」

彼女はスッと眉を上げて俺に一瞥をくれ、そして遠坂に向き直って溜息をついた。

「リン、日本の従者というのは、主人の知人に向かって名前で呼んだりするのですか? 少なくともこの国にいる間はその習慣を改めさせたほうがよろしいかと」

こ、この何処かで見たような王様反応はっ!

「……シニョーラ・ヴェニエル、俺は遠坂の従者じゃない」

とあえて苗字付きで前置きして、俺も遠坂の方に矛先を向ける。

「遠坂、いやそりゃ俺は遠坂の弟子だし従者みたいなモンだし頭が上がらないのは確かだし、遠坂は名門で王様チックだけど、っていやそうじゃなくてつまりだな、ロンドン行きじゃないんだから下僕とか説明するのはいい加減に……」

──くつくつと。ごめんなさい全然我慢できませんでした、という風情で赤銅の髪を震わせている女性に気がついた。見れば遠坂のみならずイリヤまで、意地の悪そうな笑みを浮かべてやがる。

「……ごめんなさい、リンから聞いてた通りの忠犬ぶりを見てみたくって」

今や完璧に破顔した状態で、ルチアは改めて俺の名を呼んだ。

「無礼をお詫びしますわ、シニョーレ・エミヤ。ただ一応言い訳しときますけど、従者という言葉自体はリンからそのままの受け売りですわ」

共犯者名をあっさり告白し、彼女は笑いを収めて一礼した。

「もちろん、お名前は伺っておりました。第五次極東聖杯戦争の勝利者にして、禁呪クラスの投影魔術の使い手。二代に渡る誉れですわね」

俺と遠坂の表情が凍りつく。前者はともかく、後者については揉め事を避ける為、遠坂の公式報告には一切載せていない話なのだ。おまけに二代ということは、俺と親父の関係も知れてるということになる。

俺たちの反応を見て、ルチアは初めて組織者としての表情で応対し、

我々は常に在りて、観測するguardiamo, e siamo sempre qui.

と、謎めいた言葉を口にした。

「まあご安心を、この話は書庫の上層部内に留めております。一般構成員も、無論時計塔も預かり知らぬ話ですわ」

自分が上層部の一員である事を宣言しつつ、彼女はあっさりとこの話を終わらせた。公共の場で語る話ではない、ということだろう。

「さ、本当に参りましょうか。ご滞在にはタラマスカが宿舎に使っている屋敷の一つを提供いたしますので、とりあえずはそちらまで。あ、ご連絡いただいてたサマーハウスも、一週間丸々押さえておきましたから、後ほど」

彼女は颯爽と先導して空港を歩いてゆく。

俺たちはその後を追いながら、遠坂にひそひそと話し掛けた。

「屋敷? サマーハウス? ご提供? なんか凄い待遇っぷりだよな。そんなにこっちの情報って価値があるのか?」

「さあ? 向こうがくれるって言うんだから貰っておきましょ。……ま、確かに『戦争の後始末で遠坂家には金がない』とは何度も言ったけど。下手したら資金不足で本当に来れないんじゃとでも思われたかな」

視線はぴくりとも動かさず、しかし遠坂を見慣れた俺には(うわーちょっと言い過ぎたかなーまずいなーでもお金ないのは本当だしなー)という心の声が聞こえてくるようである。

「シロウもリンも、気にすることないわ」

と平然と言い放ったのはイリヤである。

「ウチだって名門級のお客様が来たら、山の一つぐらいゲストハウスに提供するもの。ヴェニエル家もこっちの随分古い貴族みたいだし、社交なんてそんなものでしょう」

筋金入りのお嬢様は格が違いました。

オヤジ、俺の人生は魔術以外にもどんどん凄い世界に曲がって行くみたいです。

……ええい、こうなったら成るように成れだ。

確かに、話には聞いていた。

街を走る無数の運河は河川のそれにあらず、浅瀬の上に敷き詰めるが如く、海面に直接建てられた無数の建築の「隙間」である。結果、百十八の石塊が四百余の橋で寄木の様に繋がれ、百七十六の運河がそこを巡る島が誕生した。

千年の昔から存在し、三百年の昔から変わらぬ佇まいを見せている、寸土といえど人の手にならざる土地のない完全なる人工都市。


──空港から船を駆ること半時間。ところどころ葦の覗く遠浅の海を、軽快な駆動音を響かせてボートが滑ってゆく。一面の海かと思いきや、あちこちの木杭で示された水路以外は航行不能なほど浅いらしい。

次第に水平線の向こうに見えていた小さな影が教会の鐘楼の形を取り始め、湾の中央にある島に近づく頃には、文字通り海面からそそり立つ家々という不思議な眺めが現れる。

辺りは多くの小船、観光客を乗せた水上バスが行き交い、その向こうには一隻の大型客船がタグボートに引かれ、ゆっくりと海上の教会の前を横切っていく。

やがて、島の正面に明るい薔薇色の大理石に被われた宮殿が姿を現す。雲ひとつ無い空を背景に、石の重さを感じさせないその姿は、荘厳ではなく優雅。船着場にも似た宮殿前の広場には巨大な二本の柱が立ち、その片方からは有翼の獅子が海を睥睨していた。

船はそのまま広場の岸壁を横切り、大運河と呼ばれるこの街の動脈の入口へと進んでいく。海に向かって開かれたこの場所こそが、この街の「正門」なのだと理解すると同時に、隣に立つ案内人が歌うように宣言した。


「ようこそ、古き海の都ヴェネツィアへ。
タラマスカは獅子の書庫ビブリオ・マルコにあなた方を歓迎しますわ」


何処までも青い空を背に、あちこちに聖マルコの有翼獅子を金色に縫い取った緋色の旗が翻る。

海上都市という異常と、石造りの古都が持つ歴史の重みが相まって、それは何処か古い魔術書のような雰囲気を漂わせていた。

イリヤの望んだ海。遠坂に誘われるがまま俺たちが降り立ったのは、イタリア半島はアドリア海の最奥に位置し、かつては東地中海レヴァンテの女王とまで呼ばれた、世界に二つと無い海の都だった。

「しかし、なんでヴェネツィアなんだ?」

あの日、遠坂にこの旅の真の目的の説明を受け、タラマスカの本拠地に行かねばならない、というところまでは理解できた。

でも、俺の中でヴェネツィアという名前は初耳に等しい存在だった。少なくとも、こっち側の世界──魔術というキーワードと結びついてはいなかったのだ。

「ま、ちょうどいい機会だから一通り説明しとこっか。士郎は時計塔以外とコネを持っといた方が今後何かと楽だろうしね」

冷静に考えると物騒な遠坂の台詞だが、この際忘れておこう。

「端的に言えば、ヴェネツィアは昔、魔術教会の本部があった街なの。知っての通り本部は今ロンドンに移転してるけど、タラマスカがその後を本拠地として利用してる、ってわけ」

「え、じゃあ昔は時計塔がヴェネツィアにあったってことなのか? なんかああいうのってずっと同じ場所にあるような気がしてたけど」

「時計塔ってのはロンドンの異名だから、ヴェネツィア時代は聖マルコにちなんで獅子の書庫って呼ばれてたんだけどね。大体ケルトの片田舎だった頃のロンドンに、本部を置く理由なんて何もないでしょ?」

遠坂は紅茶で喉を湿らせ、完全に師匠、いや教師モードに切り替わり、不肖の弟子に歴史の講義を開始した。

「まず、ヴェネツィアが昔はれっきとした独立国だった、ってのは知ってる?」

「う、それは一応歴史の授業でなんとか」

「ヴェネツィア共和国って言ってね、強力な海軍を抱えた交易国家で、最盛期は北イタリアと東地中海に結構広い領土を持ってたんだけど……。細かい歴史の話は省くわ。別に史書でも読んで勉強しといて。

覚えといて欲しい重要な点は二つ。

一つ目は、ヴェネツィアはその国力のおかげで、『普遍』を名乗る教会の文明圏、それも総本山ヴァチカンのあるイタリア半島に本拠地を持ちながら、昔っから教会の影響を極力排除してきた珍しい国だってトコ。要するに異端とされる連中には何かと都合の良い場所だったわけ。

二つ目は、さっきも言ったけどこの国が貿易国家で、とんでもなくお金持ちだったってトコ。領土自体は大したことなかったんだけど、十五世紀ぐらいまでは西欧でも最強クラスの経済力を誇ってたのよ。

で、地中海世界と言えば古代遺物や古文書の宝庫でしょ? 交易と戦争ついでにギリシャやらエジプトやら、あちこちから収集したり掠奪した代物がヴェネツィアには唸ってたワケ。しかもお国は異端狩りには全然興味が無い上に、お金持ちの余裕ってヤツで、そーゆー古書とか遺物の保護にも当時としちゃかなり熱心な方だったの。

それでいて、教会世界から隔絶した僻地ってわけでもない──分かるかしら、ここは錬金術師とか古代研究者とか、そういう連中の天国だったのよ。当然、魔術師って連中にとっても。大体魔術なんて昔から金食い虫だから、財政基盤としても交易や投資で稼ぎやすいヴェネツィアは理想的だったのね。モノはあるカネはあるってコトで、確か十二世紀頃には、元はパドヴァで学院をやってた、今の協会の原型となるギルドがここに本部を置いたらしいわ。ま、当時は今ほど組織的じゃなかったみたいだけど。

魔術師のギルドなんて他にもあちこちにあったけど、ヴェネツィアは古代遺物アーティファクトも豊富で研究向きの場所だっただけじゃなく、当時争いが激化してた教会と対抗するのに都合のいい位置にあったのが運のツキね。抗争が激しくなるにつれて、学院と言うより魔術師を糾合する組織としてヴェネツィアのギルドはどんどん膨らんでって、そのうち魔術師の代表面して「魔術協会」なんて名乗りだして、今に至るってわけ。

ま、その後時代の流れでヴェネツィアの力も衰退して、代わって経済的にも台頭してきたロンドンに本部は移転したというわけ。あ、その前にアムステルダムだった頃もあったけど、まあそんなところよ」

あの時、遠坂の台詞を半分だって理解してたかは怪しいけど、今こうして海と石畳の街を歩いてみると、この街にそういう強烈な歴史が染み込んでいるのが良く分かる。

かつて強大な国力を誇った国。栄華を極めたその中心地は変わらず美しいままなのだが、その中身は既に死んで、後はその抜け殻がゆっくりと朽ちていくだけ──魔術師としての在り方を学んだ今、このヴェネツィアという街の在り方は、魔術という存在に妙に重なって見えるのだった。


──皮肉よね、ヴェネツィアって植民帝国時代の波に乗り遅れて滅亡したんだけど、協会が衰退を予測して神秘の隠匿を始めたのと、この国が本質にならない保護政策を取り始めたのも同時期。魔術の衰退を加速したのも、その植民地時代を拓いた産業革命っていう同じ波だったんだから。

ヴェネツィア協会時代ってのは、魔術がまだかろうじて文明社会とタメを張れてた、最後の時代だったってわけ───


「エミヤさん、どうかされました?」

船を降り、迷路のようなヴェネツィアの街を今宵の寝床目指して一同は歩いてゆく。

そんな中、一人物思いにふけっていた俺に、ルチアが声を掛けてきていた。

「いや……美しい街だな、とは思うんだけど、何処か哀しいな、とも思ってさ。その、悪く言うつもりはないし、巧くは言えないんだけど」

取り留めの無い俺の言葉を、ルチアは軽く頷いて受け止めてくれた。

「いえ、むしろ初見でこの街の本質を見抜いた眼力は流石と思いますわ。今日のヴェネツィアは本質的に『保存』でのみ生きている……まさに、観測と記録以外の目的を失った私たちタラマスカのように。ここに私たちが本拠地を置いてるのは偶然ではないと私も思ってますから」

日本ならば裏路地と呼ぶような狭い道を抜けると、不意に視界が広がった。小さな石畳の広場の一角に、周りと比べれば随分大きな屋敷が姿をあらわした。

「さて、それじゃリン、狭いところですけど気楽に使ってね。鍵はこれ、あと細かいことはここの使用人に聞いてくださいな。そうそう、本部の約束は明後日だから、明日は例のサマーハウスで海でも楽しんできたらどうでしょう? 時間が合えば私もお邪魔するかもしれないわ」

ヴェネツィアのラグーナは本島を始めとして他にもいくつかの小島を抱えているが、その東辺は細長い堤防のような島によって外海と隔てられている。

その堤防・リド島こそ、外海たるアドリア海に面した側に延々と伸びる砂浜を持つ、一大リゾートビーチなのである。

そこにはプライベートビーチや世界の富豪に供される豪奢なホテルも存在するが、一方で砂浜の背後にはヴェネツィア市民が一夏を過ごす小さなサマーハウスが立ち並ぶ。今回ルチアが提供してくれたこの施設は、実はそれほど贅沢な娯楽ではなく、むしろ海辺に荷物置き場兼自炊休憩所のワンルームを一ヶ月単位で借りておく程度の庶民的存在なのだ。……まあ、と言っても一週間程度の滞在にこれを用意してもらえるのは素直にありがたいのだけど。お金ないし。

そしてヴェネツィア市民にとっては夏の日常の一部とはいえ、この場所が地中海の陽射しとアドリア海の潮風を満喫できる、極上のリゾートである事に変わりはないのである。


水着に着替えたイリヤとひとしきり海に浸かって戻ってくると、遠坂は砂に立てたパラソルの下、デッキチェアにサングラスという伝統的なスタイルでお寛ぎのようだった。冬には赤のコートをまとう少女は、その水着に到るまで真紅。堂々たるビキニでのご登場である。

「あ、おかえり。イリヤの調子はどう?」

「当たり前だけど、すげーはしゃぎよう。そういや泳いだことも無かったんじゃないかと思ったけど、その辺は全然平気みたいだな」

今もまだ浅瀬で後から来たルチアと遊んでいるイリヤを遠く眺める。ああして笑っているのを見ると、改めて本当に一人の無邪気な女の子なんだな、と思う。いや、ちょっと付加価値がついてるだけで文字通りそのものなんだけど。

「にしてもさ、遠坂」

俺は遠坂の方に目を戻すと、思わず眼前の構造を解析し、愚かにも素直な感想を口にしてしまっていた。

「その水着の効果、すごいな」

「海の藻屑になりたいの、アンタ」

と言いつつ、遠坂の機嫌は悪くないようだった。

「……いーのよ、もう桜に勝とうなんて発想はないし。だったら実体追うより外装重視するのは当たり前でしょ? 素直にそれが成功してるって受け取っとくわ」

と、あっさりいなされてしまった。
うーん、もう少し慎みある反応が欲しいと思うのは間違いなのか。

「外装といえばさ、イリヤのあの水着」

彼女の纏う白のシンプルなワンピース。イリヤみたいな女の子にはとても似合ってるとは思うのだが、

「なんかヘンなの入ってないか、あれ」

「あ、分かったなら合格。あれアカシャの太陽殺しを縫いこんだ特製品よ。いくら身体に宝石を埋めてるといっても、あの子にこの陽射しをまともに長く受けさせるのはちょっとね。ま、言峰が教会に色々溜め込んでた古代遺物のおかげでだいぶ助かってるわね、あの子に関しては」

遠坂はニヤリと笑い、そして背伸びをしながら悔しそうに呟いた。

「もうちょっと繊維が足りてたら、わたしの夏服にも織り込んだのになー」

何もしないで日焼け対策いらずなんて、すごいご都合魔術よね。生まれて初めて一般生活で魔術を便利と思ったわ、云々。


「これで桜も一緒だったら最高なんだけどな」

余りに平和で幸せな光景に、俺は思わずそう呟いてしまう。案の定、遠坂に耳ざとくその発言を捕まえられてしまった。

「それイリヤには聞こえないようにしときなさいね。あの子最近桜に相当対抗意識燃やしてるみたいだから」

何のことか良く分からないが冗談らしい台詞の後で、少し表情を消して彼女は続ける。

「今日は今日、明日は明日よ。全部終わったら……いくらでも何処にでもいけるんだから。今それを言ったって言葉の贅肉ってもんだわ」

「……すまん。その通りだった」

俺は素直に過ちを認め、気まずさを誤魔化そうと再び海の方に目をやった。


真夏のくせに、日本とは違って乾いた空は何処か、あの冬に眺めた遠い空を思わせる。

一陣の潮風の中、俺は俺たちがユーラシア大陸を横断するに到った理由を思い返し、拳の内にきつく握り込んでいた。

3: the unsung war

終わらない、世界。

事の起こり。そもそも事が終わっていなかったのが、この全ての始まりだった。


あの日、遠坂邸に呼ばれて行った俺は、遠坂邸の結界に加え、ご丁寧に遠隔探知防止の魔法陣を刻んだ中で、この一年半、遠坂とイリヤが追ってきた残酷な事実について聞かされたのだ。


「まず現状を端的に言うわね」

遠坂は言いづらそうに、だが口を開けばきっぱりと、あの冬に終わったはずの戦争結果を否定した。

「士郎、この街の聖杯はまだ存在している。あれは壊れてなんかないわ」

「な──それは、どういう」

「わたしたちも十年前の衛宮切嗣と同じ誤解をしていたのよ。……そうね、勝利者の願いによらず、聖杯の本質自体が極大の呪いである、と理解した点では、一歩ぐらいは進んでるんだけど」

彼女はここにはいない誰かを睨みつけるような表情で、今なお続く真実を口にした。

「記録を見ても、初期の聖杯はあんなものじゃなかった。なら前回の聖杯が穢れていただけなのか──その聖杯は衛宮切嗣とセイバーが破壊したし、それに今回の聖杯だったイリヤは呪いの束なんかじゃなかったわ。にも関わらず、今回も溢れ出たのはあの黒い泥だった」

確かにそうだ。いくら聖杯戦争が碌でもない代物とは言え、あんな呪いが名門三家の目標だったとは思えない。昔は、もっと違うカタチを持っていたはずなのだ。

……が、そんなことはどうでもいい。それは、つまり、

「そうよ。聖杯戦争はいつか六度起こり、その聖杯もまた、この世全ての悪である可能性が高い」

なんという、間抜け。

当然だ。そこまではとっくに推理しているべきだった。あの冬に俺とセイバーが共に誓った聖杯の破壊。それは成ったと信じ、終わったと信じて疑いもせず、無邪気に過去の記憶としていた自分に猛烈に腹が立ってきた。

そうだ、あの時言峰が切嗣オヤジを道化と呼んだように、俺たちもまた、何十年後かに道化として誓いを汚されることになる───

「そもそも前回と今回を見る限り、聖杯は『孔』だった。無限の力を汲み出す孔──真っ先に思いつくのは、あれが根源に到る門である可能性ね。確かに、向こう側には無限に等しい魔力が散布されてると聞くし。……でも根源である以上、『呪い』なんて方向性は持ち得ない。そもそも『門』は魔術師が殺し合いをするだけで開くような生易しいモノじゃないわ」

遠坂はそこで一度口を閉ざすと、探るように俺の顔を見つめた。

「戦争を始めた御三家わたしたちはともかく、五回目の聖痕に選ばれただけの士郎が、六度目の戦争に関わる理由はない。この先を聞く義務はないのよ。……なんて、やっぱ蛇足だったか」

「当たり前だ。聖杯の破壊は切嗣が望み、セイバーと俺が交わした誓約だ。それを、半端な形で放っておけるわけがない」

──いいわ、わたしもくだらない質問で時間を無駄になんてしない。それがわたしたちの在り方なんだから」

遠坂は魔術師の顔と師匠の目で俺の決意を即座に承認し、そしてさらに意外な事実を口にした。

「イリヤとは既に、聖杯を完全に破壊する方向で合意しているの。この先の推理も裏付けてもらったし、その後の調査も二人でやってるわ」

この件に、イリヤが同意している……?

「アインツベルン本家はそれを許さない……それが、この件をこうして隠蔽している理由よ。でもイリヤは言ってくれたわ。この形ではどうせ到ることはできない、キリツグの娘として、彼女も聖杯の破壊に同意する、と」

……それは、イリヤは。

切嗣の娘。自らの存在理由の破壊。

彼女がそこにどれだけの苦悩を込めて答えたのか、今この瞬間に分かってしまった。

「……なおさら退けねーな。続けろよ、遠坂」

激情はあくまで内に。一年半ぶりの戦争同盟の再開を告げる一言を、俺は遠坂に手渡した。

「ええ、長くなるけど覚悟してね。全ての始まりである大聖杯について、それを汚染している泥について、そして、この呪いに桜がどう関わってくるかについて───

──じゃあ、こないだみたいな派手な戦争にはならないんだな」

「そういうこと。どんな魔術でも発動前に叩かれれば脆いもの。大儀式たる天の杯テンノサカヅキでもそこは変わらないわ。大聖杯はどう足掻いても数年は起動できないから、あれさえ潰してしまえば中の泥も受肉することなく根源に還るし、桜に入り込んだ欠片も無力化する。もう二度とこの地で聖杯戦争が行われることもなくなるわ」

遠坂から全てのカラクリを聞いた後、俺は最後に彼女らの破壊計画について話を聞いていた。

「といっても、ユスティーツァの魔術回路を展開した大聖杯はそう簡単に解呪できるモノじゃない。もし起動した後だったら、イリヤは法に則ってさっくりアレを消去できるんだけど、それじゃ本末転倒よね。……悔しいけど、今のわたしたちじゃ中心部に今も埋まるオリジナルユスティーツァの意志には敵わないし、モタモタしてれば臓硯が確実に邪魔に入ってくる。そこで桜を人質に取られたりすれば終わりだわ」

桜の名前を耳にして、無意識のうちに奥歯を強く噛み締める。桜は全く無関係だったなんて、自分に都合の良い解釈を勝手に信じていた自分が許せない。あの笑顔の裏に、計り知れない絶望を抱いていたことも知らずに───

「……だから、あと一押し何かが欲しかったの。士郎が例のアヴァロンを投影できればそれでユスティーツァを封じられたかもしれないけど、やっぱアレはダメだったんでしょ?」

「ああ、形だけは投影できても、あれはセイバーの魔力が供給されてはじめて宝具として機能するんだ。今の俺が作れるのは模造刀に過ぎない」

「そうそう美味しい話はないってコトか。ウチも大師父の置き土産で何とかならないかなー、とか思ったんだけどね。イリヤの助けで解読だけは成功したんだけど、あったのは設計図だけ。とても今のわたしで作れる代物じゃなかったわ」

大師父ってあれか、遠坂の祖が仕えたという魔導翁のことだっけ。ちなみに遠坂から魔術を学ぶということは、俺も間接的にシュバインオーグの系譜に名を連ねることになるらしい。

「ま、ともあれようやく最近タラマスカと話がついたのよ。向こうは封印のエキスパートだし、逆に向こうは極東にある大聖杯を詳細に調査することなんてできないから、私たちの解析結果は喉から手が出るほど欲しい。そういう取引で、連中に『聖杯の破壊』に特化した概念武装を組んでもらえることになったわけ」

それこそが、さっき俺の家で遠坂とイリヤと話してた内容ということらしい。

「で、さっきから出てくるそのタラマスカ、って何なんだ? 協会の一部門みたいなコトはなんとなく分かったけど」

「あ、そっちを先に説明すべきだったか。
タラマスカっていうのは、表向き……その表の顔ですら既に一般人にはあまり知られてない裏向きじみた存在なんだけど、いわゆる超常現象研究者の集団なの。超能力とか、魔法とか、広くはUFOとか、そーゆーヤツね。もう何世紀も昔から、オカルトマニアの間じゃ時々その存在が示唆されてる。タラマスカ自体にも、ESPとか人外の連中が所属してるんじゃないか、なんて噂もたまに流れたりするわ。

で、ここまでが胡散臭い話で煙に巻く為の表向きの顔。確かに超常現象の観測員を大量に抱えてるし、単なるオカルト学者も結構いる。人じゃないのが居座ってるってのは紛れも無い事実だし。

でも本当の中核は、神秘の観測と記録を大目的とする、時計塔に属する魔術部門の一つなの。少なくとも文献上は八世紀頃にまでその存在が遡れる、協会の中でも最古にして最大の組織の一つよ。

元はあらゆる記録を無限に重ねることで辿り着こうとした一派らしいけど、所詮流れ出した事象の観測で到ることは不可能、ってのは自分たちでも随分昔から認識してたみたい。今じゃひたすら世界中の神秘を余さず観測し、記録すること自体を存在意義にしているわ。

その規模と目的の独自性で言えば、アトラスの穴倉や彷徨海みたいに完全独立しててもおかしくないんだけど、ま、その辺はわたしたちじゃ知り得ない歴史的取引があったみたいね」

相手をコレクターマニアか何かのようなイロモノ扱いをしたところで、遠坂は一息ついて話を続けた。

「で、彼らの目的が単純に観測と記録だけなら全然平和なんだけど、そこに掛ける妄執が半端じゃないのよ。タラマスカが現役の魔術師に恐れられてるのは、あそこがその妄執で協会から封印執行機関に認定されてるからなの」

封印執行機関。切嗣から少しだけその名前を聞いたことがある。何でも、はぐれ魔術師を狩り立てる協会の懐刀だとか何とか。

「えっとね、『観測者の存在が観測対象を捻じ曲げる』って聞いた事あるでしょ。科学でいう不確定性原理とかもその一種だし、そんな小難しい話じゃなくても、例えばカメラを向けられると自然な笑顔が作れない、とかもそうね。

神秘にも同じような面はあって、だから彼らは極力事象に影響しない観測に長けた連中ではあるんだけど……。タラマスカはそこで満足するような連中じゃあなかったのね。当代の魔術では観測も記録も不可能で、よってそれを二度と再現できない恐れがある場合、それが可能となるまで対象となる神秘を「永久封印」すべきである、と主張しだしたのよ。

この主張を、当時神秘の隠匿で魔術の延命を図ろうとしてた時計塔本部が認めちゃったもんだから大騒ぎ。

タラマスカに『記録不可能なほど素晴らしい神秘』と認定されると、たちまち封印指定を受けて、その魔術師は編み出した神秘を封印されちゃうの。これって協会が魔術師に与える最高の名誉でもあるんだけど、魔術師にとって編み出した神秘なんて辿り着くための手段に過ぎないわけでしょう?それを他者の記録のために封じられちゃうわけだから、こんなに割りに合わない話も無いってわけ。当然、封印指定を受けた魔術師のほとんどは協会から遁走しちゃうのよ。

で、タラマスカはそういう魔術師を追跡し、封印する部隊を抱えるに到ったという堂々巡り。それが、封印執行機関というわけ。あくまで基本は時計塔に仕え、タラマスカの世界中の支部に散らばる封印のエキスパート。……今回力を借りるのは、そういう飛びっきりイカれた連中なのよ」

協力者に対してトンデモナイ評価を断言する遠坂だが、彼女がここまで言うということは、本当にとんでもなく危ない連中なのだろう。

もちろん不安を感じないでもなかったが、

「まあ、ヤバくない魔術集団なんてそうそう存在するもんでもないんだけどね」

という一言には納得せざるを得なかった。

第一、元々ヤバい橋である聖杯破壊に挑むのだから、まあその辺は受け入れるべきリスクだろう。


「ちなみにそのタラマスカの本拠地が、今回呼ばれて行くヴェネツィア、通称「獅子の書庫」なの。かつての協会本部はロンドンに移転したけど、ヴェネツィアの施設が消滅したわけでもないから、これ幸いと連中が後釜に自分たちの本部を置いちゃったわけね。協会の一部門と言っても独自の行動理念を持ってるから、協会中枢とは少し距離を起きたかったんでしょ」

なるほど、それでヴェネツィア行きって話が出てくるわけだな。でも、そんな夏の休暇のついでで済む話なんだろうか……?

──ちょっと散々脅しちゃったけど、全体としてそんな危険な話ではないのよ。そうならないようわたしとイリヤで散々計画した結果だし」

と、いきなり肩の力を抜いて小さく笑う遠坂。

「最大の障壁は大聖杯自体、最大の敵はアインツベルン本家と間桐臓硯。でも彼らも次の聖杯起動までは手詰まりだし。その隙にちゃっちゃと片付けちゃおうってのが基本戦略だから、ま、あんまり心配しないでいいわ」

俺がよほど心配そうな顔でもしてたのか。

遠坂はたまにしか見せない優しい表情で、話を締めに掛かった。

「ともかく、バレないように行動するのが基本。わたしたちが急にヴェネツィアに行くのも十分怪しいんだけど、だから隠すより逆にタラマスカに呼ばれたって形で堂々行くの。バカンスも取れるし、ってのは人間的な理由でしょ」

急に最初の海行きの話に帰ってきて、一瞬頭がついていかなくなる。

「でも『これはあくまで擬態行動だから』なんて考えてたら楽しめないわ。どうせ行くんだから、遊んでる間は全力で遊ぶ。この方針に異議は無いと思うんだけど、どうかしら衛宮くん」

俺の混乱した表情を明らかに楽しんでる風で、遠坂は人差し指を軽く突きつけて、俺の賛同を求めてきた。いや、そりゃ人間遊ぶときは全力の方がいいに決まってるんだけど。

ほんの僅かな間、回答に困って沈黙すると、

「士郎、わたしと海に行くのは、嫌……?」

なんてあからさまに狙った表情で訴えかけてきやがった。しかし例えあからさまでも、そんな風に見上げられると一発で顔に血が集まっちまうんだから、見事に策にはまっているというわけだ。

「ば、ばか、嫌なわけがあるもんか。ただ、その、えーとだな」

「あ、そーかそーか、衛宮くんはイリヤと二人きりがいいんだもんねー。ホント、小さい子好きって色々大変よねー」

第二射、的中。衛宮士郎にクリティカル。

……この後遠坂に散々弄られ、それからいつもに倍して散々しごかれ、全力で消耗して遠坂邸を後にしたのは言うまでもない。

4: talamasca

盛夏茶宴、人外魔境

ヴェネツィアでの数日は、まるで合宿のような雰囲気で過ぎていった。

最初の日こそ遊び倒させてもらったけど、次の日からは事あるごとにタラマスカの研究員に呼び出され、聖杯戦争関係のヒアリングやら、大聖杯絡みの議論やら(前者はともかく、後者は俺はほとんど関われないのだけど)に駆り出される。

それでも、合間を見ては街を歩き、運河沿いのカフェでお茶したり、日が長いのをいいことに海へと繰り出したりと、まさになんだか勉強会でも兼ねた合宿のような雰囲気だったのだ。


とは言え、それも今回の訪問の最終目的、聖杯破壊の切り札について、タラマスカ側から結論の提示があるまでだった。

「リンとイリヤは議論に参加してもらってますから大まかな話はご存知と思いますが、最後の確認とエミヤさん向けの説明を兼ねて、ちょっと今回の責任者と会ってもらうことにしましたわ」

と言われたのが滞在七日目。
俺たちはルチアにいつもとは別の場所に呼び出されていた。

俺たち三人は、彼女の先導でヴェネツィアの石畳を歩いてゆく。先日のリド島は例外だけど、それ以外の街中は本当に狭い。大抵の「道」は両手を伸ばせば壁に触れてしまうし、目抜き通りと言っても片道一車線ぐらいな幅だ。

しかし、この街には一切の車が存在しない。自転車ですら進入禁止のヴェネツィアでは、それぐらいな道幅も大して問題にはならないのである。

この街では、そんな迷路をちょっと歩けば大抵は大きめの運河に当たり、そこからは水上バスなりモーターボートのタクシーなりで移動する。どんな貴族でもお偉いさんでも、運河に面した邸宅や目的地でない限り、二本の足で道を歩いて橋を渡れ、ということだ。

──今日の会合場所は、ルチアの手配した船で大運河を下り、本島を少し離れたところにあった。ラグーナにぽつんと浮かぶ離島にあるとは言え、やはり海に直接面した邸宅は、ヴェネツィアン・ゴシックと呼ばれる、レース模様とイスラムの葱坊主めいたデザインに彩られた大理石に被われており、本島の大運河に面した貴族のそれと遜色ない。

「タラマスカ本部はヴェネツィア中に散らばってますが、ここはその中でも最も古い、中枢とも呼べる場所なんです。実質デイヴィッド卿の私邸ですから、卿に会う時は大抵ここですね」

今日は自らボートの舵を取りながら、ルチアがそう解説してくれる。が、その名前にいち早く反応したのは遠坂だった。

「え、ちょっと待った。そのデイヴィッド卿って、虎石翁デイヴィッド・タルボットのこと!? ……やば、これってそんな超大物が責任者やるような話になってるワケ?」

「いえ……あの方はこの件に関しては妙に興味を持たれてまして。こう言うのも何なんですが、恐らくただの趣味ですわ。まあ、あまり深く考えない方が精神的にもよろしいかと」

そう言うルチアも、何処か困ったような表情を浮かべている。しかしどんなお偉いさんなんだ、その虎石翁ってのは。

そんな俺の心の声を見透かしたのか、遠坂はこちらも見ぬまま、言い捨てるように解説する。

「デイヴィッド・タルボット卿、現タラマスカの総長にして、虎石の称号を持つ大学者よ。……少なくとも趣味でほいほい出てこられちゃこっちの神経が持たない類のお偉いさんね。変に睨まれでもしたら生きて帰れないわよ、わたしたち」

……ま、こういうときは知らぬが仏というやつだ。一方のイリヤも、我関せずといった表情で滑り行く水面を眺めている。

やがて、船は邸宅の回廊に直接繋がっている船着場へと接岸した。

(入り給え、シニョーラ・ヴェニエル)

俺たちは緊張した面持ちで回廊を抜け、赤を基調とした豪奢な内装に目を奪われる余裕も無く、最上階の重い木の扉の前に辿り着くと、まるで扉を見透かしていたかの様に即座に中から声が掛かる。

大仰な扉を押し開くと、その執務室内もやはり赤が目立つ。全ての窓には深紅のベルベットカーテンが掛けられ、デスクの周囲には緋色のトルコ絨毯が敷かれている。よく見れば今通った扉ですら、赤味がかった木目を浮かばせている。

次いで目を引くのは正面に掛けられた巨大な宗教画だが、部屋は薄暗く詳細を眺めることはできない。時刻はまだ明るい夕刻だと言うのに、カーテンの降ろされた室内はヴェネツィアングラスのミニシャンデリアで照らされていた。

「お連れしました、デイヴィッド卿」

ルチアが正面のデスクに座る人物に向かって一礼する。真夏にも関わらず漆黒のスリーピースに身を包んでいるが、座っていてもその下のがっちりとした体格が分かる。英国紳士、と聞いていたイメージからは意外だが、栗色の髪を乗せたその顔は、確かに典型的なジョンブル魂を表していた。

「ご苦労だったなルチア。今日はもう下がってよい。彼らとは私だけで話したいのだ」

翁、と呼ばれる割には若く太い声で、彼は彼女を下がらせた。

重い扉の音が再び響き、そうして彼はようやくこちらを視界に納めて立ち上がった。

「はじめまして、辺境の魔術師たちよ。タラマスカの長を務めているデイヴィッド・タルボットだ。トオサカ、アインツベルン、そしてエミヤの名を引く者達に会えて私も嬉しい。───ああ、そこのソファーに座りたまえ。私もそちらへ行こう」

デスクから応接用らしき低いテーブルに足を運びながら、のっけから辺境などと随分なご挨拶のお偉いさんである。

そんな思いが俺の顔に出ていたのか。彼は真っ先に俺を見据えて声を掛けてきた。

「ん、辺境というのが気に入らんかね? なに気にする事はない、今回の件も、新しい血はフロンティアから、という良い証左だろう」

と、冷静に考えれば変わらず王様な発言を放つタルボット。まぁ、こういう性格なのだと思って俺も気にするのはやめておこう。

遠坂とイリヤは流石というか、名門らしい似非……もとい社交的姿勢で卿と挨拶を交わす。俺だって初対面の礼儀ぐらいは心得ている、と挨拶がてら差し出された相手の右手を取った。

───な」

冷たい。異常に冷たい。冷え性だとか冷房の効かせ過ぎだとかいうレベルではない。おまけにこの大理石のような硬さは、まるで───

「おや、彼は知らなかったみたいだね。ルチアも君たちも人の悪いレディたちだ、私に会う前にそれを知らせぬとは」

……そう、卿は間違いなく死体だった。

「石と為った虎、それが私の二つ名の由来さ。改めて自己紹介しよう、三百年ほどヴァンパイアもやっているデイヴィッドだ。この歳にしては白い、とよく言われるがね」

ヴァンパイア。吸血鬼。不死者。

幻想種等とは異なり、元は人であった者がこの世界の摂理を破綻して存在するモノ。不老不死として魂のレベルで強化された彼らは人間の肉体という器に過ぎる存在であり、故に彼らは劣化する自らの身体を大量の生命の摂取で補っている。文字通り、あらゆる生命種に対する絶対の悪──

「待て待て待て。彼の思想は随分と教会寄りだな。冬木にはさぞ良い牧者がいたのだろうね」

と、気にする風でもなく苦笑するタルボット。あ、つーかあっさり心を読まれて……慌てて精神を魔力で包み込む。うーん、また遠坂に怒られるな、コレ。

「誤解の無い様言っておくが、私はそもそもほとんど『飲む』必要がないのだ。教会が血眼になって狩っている死徒などという連中とも違う。私は純粋にアメルの血を引くこの星の系譜の者さ」

そう言って彼は改めてニヤリと笑った。なんとなく分かってきたぞ、ルチアが困った人だと言わんばかりに苦笑していた訳が。

「さて、改めてタラマスカへようこそ。獅子の書庫に世界の記録を積む者、永遠の観測者──最近は暇なので封印機関などもやってるが」

魔術師の畏怖の対象をあっさりと「余暇」と言い切りやがった。ま、それは本心というより、それに対するこっちの反応を見て面白がっているのだろう。……この爺さん、藤村の爺さん並に扱うのがちょうどいいのかもしれない。

「本題の前に一つ伺ってもよいですか、総長サー

「もう少し気楽に話してくれて構わんよ。で、なんだね?」

話題を遮る非礼を知りつつ、これだけは聞かずにはいられない。

「先ほど『エミヤの名』と仰いましたが、父をご存知なのですか」

協会の目を逃れて冬木に潜んでいた切嗣。セカンドオーナーたる遠坂ですら感知していなかった存在を、何故協会の部門長が知っている───

「なに、彼は書庫では有名な魔術師だったからな。絶対の暗殺者、正義の矛で殺す者、何より固有時制御という魔法の域に到達した、第二種封印指定魔術師、エミヤキリツグ。その継子も聖杯戦争に勝ち、非常識なまでの投影魔術を使ったとの報告があれば、エミヤは立派な魔術師の系譜として称えるに値するとは思わぬか」

───何故、そこまで」

最初にルチアに会った時もそうだったが、俺のみならず、遠坂も心なしか焦りを浮かべている。第一切嗣が封印指定を受けてたって……

「我々を甘く見てもらっては困るよ」

彼は不意に個人ではなく組織者たる表情と口調で答え、自らの背後の壁を振り返ることなく片手で指した。


[我々は常に在りて、観測する]


かつてヴェネツィアに存在した不死者の一人が描いたとされる、ティントレットにも似た見事な絵画───彼が指したのはその複製画自体ではなく、その額縁に彫られたラテン語の一文である。

「いくら極東が教会や大店ロンドンの目の届きにくい地とは言え、そこに神秘が有る限り我々もまた必ず在る、それがタラマスカという存在なのだから」

彼は組織の存在に敬意を表すかのように一時瞑目すると、また元の悪戯っぽい、精力的な表情に返って言葉を続けた。

「特にここ一、二世紀ほどの極東、いや日本は実に興味深い土地なのだ。彼の地に混濁した西欧系統と日本との相性の良さには目を見張るよ。当代の魔法使いの一人は日本人だし、日本は他にも我々の封印指定を受けるほどの魔術師を何人も輩出しているのだからね。

おまけに神霊眼エーテルアイズやら直死の魔眼アイズ・オブ・セブンティーンスやら数世紀に一度の能力発現が報告されてるし、死徒の祖やら真祖の目撃報告まである───そしてこの聖杯戦争だ。そもそも戦争の調停を時計塔に提案したのは我々の仲間の一人でね」

事の起こりから君たちと無関係ではない、とでも言うように、彼は改めて三人の顔を見回した。

───本来静謐を旨とする我々からすれば、極東と西欧の混濁の事実は遺憾だ。が、その混濁を為したのが我々ではない以上、それは世界環の一部として重要な記録対象となる」

大真面目な、しかし何処か茶化したような口調である。

「……まあ、端的に言えば『こんな面白いモノを見逃す手はない』ということさ。大体あんな派手な騒ぎをいくつも起こしておいて、いい加減そろそろ僻地も何もないもんだ。大陸の連中も最近は日本と相性が悪いようだし、そろそろ私自身で物見遊山と洒落込んでもよさそうだな」

やっぱりそういう下心か。

……穏健な学者集団という看板とは裏腹に、魔術師にとっては協会の封印執行機関として畏怖されるタラマスカ。その長は要するに、永きを生きる不死者の癖に、馬鹿みたいな好奇心の塊だったのだ。ま、だからこそタラマスカの長なのかもしれないが。


「さて、本題に入るが」

そうデイヴィッド卿は宣言し、タラマスカの封印集団からの、今回の俺たちの依頼に対する回答を言い渡した。

「結論から言えば、衛宮士郎の肉体を媒介にアーサー王、正確にはアルトリアを召喚し、聖杯の破壊に協力してもらう」

「な───それってつまり」

実にシンプルな結論。小聖杯を破壊したセイバーの宝具を、今度は大聖杯に振るうという、端的にして効果的な結論ということか。

「いや、流石にそれは無理だ。いくら我々でも英霊クラスの魂を受肉化させるなど、第三法の大儀礼がなければ不可能だ。第一、彼女はもはや現界に応じる英霊ではないのだろう?」

……そうだ。セイバーは自らの手で聖杯を断ち、それを以って英霊となる契約を破棄したのだ。その彼女を再び戦争に巻き込むなど、一瞬とは言え我ながら恥ずべき発想だった。

「しかし、セイバーとして二度の聖杯戦争に応じ、そしてそのいずれでも聖杯を破壊したアルトリアという存在は確かに存在する。召喚というのは語弊があるな、今回行うのは一種の降霊だ」

そうか、肉体を保持して世界を飛んでいた頃とは異なり、今は霊体としての彼女が存在しうるのだ。英霊として呼び出されることのない、純粋なる霊───

「端的に言えば、彼女の霊的構造から『聖杯を破壊する意志』を賜り結晶化、聖杯の破壊に特化した概念武装を作成するといったところだ」

概念武装マーブル・アーティラリー。物理力で相手を破壊するのではなく、決められた事柄に大してのみ絶対の効果を発揮する魔術武装。その威力が魂魄の重みで決まるのなら、確かにセイバーの決断は純度においても最強クラスの概念武装となり得る。

「ただし、英霊でもなくなった存在の降霊は難しくてな。アルトリアではなく、今も崇められる存在としてのアーサー王なら可能だろうが、そんな聖杯探求者を呼んでも意味がない。そこで、まずアーサー王という原形を用い、そこにアルトリアの記憶という鋳型を以って、彼女という存在を現世に引き寄せることになる」

アルトリアの記憶という鋳型……?

「君のことだよ、エミヤシロウ。彼女の強い記憶を持っているのみならず、都合の良い事に君の中には固有結界の素地がある。自力での発現はできんだろうが、外から儀式の魔力を持って『めくりかえし』、そこに降霊を行えば必ずやアルトリアは具現化できよう」

瞬間、遠坂とイリヤの顔色が変わる。
だがタルボットはその一切を黙殺し、全ての決断を請求した。

「詳細はルチアから聞きたまえ。実はもう準備は進んでいてな、朔の都合で儀式は明日の夜となる。───これが我々の結論だ、覚悟は良いかね、エミヤの魔術師。もはや後戻りは許されん」

……当然だ。何を躊躇うというのか。

確かに、黄金の別離を交わしたセイバーとの再会に躊躇が無いわけでもないが、俺たちの目標の前には些事に過ぎない。後戻りなど、

「シロウ、一つだけ言っておくわ」

その時、ずっと沈黙を保っていたイリヤが不意に口を開いた。

「儀式の媒体になるということは、他者……今回の儀式なら七人分の魔術がシロウの回路の上で振るわれることになる。生易しい経験だなんて思わない方がいい、自分が自分で無くなる感覚は、慣れてたって恐ろしいものよ」

な、それはどういう───

「我を失えば帰ってこれない。下手をすれば廃人、あるいは死人になる可能性だってある──生きた人間を媒体にするっていうのはそういうことなの。人は聖杯になるように作られてはいないんだから」

淡々と、しかし泣いているような叫び。それは、自らが聖杯として生まれたイリヤの、心からの声だったのかもしれない。俺は無言のまま、デイヴィッド卿に目を向ける。彼は何も言わず、それが真実だと告げていた。

沈黙が降りたのはほんの僅か。

「……なんだ、そんなことか。問題ないよ、デイヴィッド卿。明日の夜でいいんだな」

遠坂とイリヤの顔色が別の方向に反転する。

イリヤはうつむいたまま。遠坂は口元に手をやったまま、こちらを殺しかねない勢いで俺を睨みつけている。

その様を薄く笑いながら眺めていたタルボットは、更に僅かな沈黙を重ねた後、小さく息を吐いてその空気を振るわせた。


「一つ……昔話をしよう、シニョーレ・エミヤ」


その声と共に軽く居住まいを正し、ソファーの肘掛に肘を突いて手指を組んだ。

「君の父上の事はファイルでしか知らない。封印指定を受けた魔術師とタラマスカの長が直接知り合うことなどありえないからね。──さて、私にはキリツグという友人がいた」

何を語りだすのかと思いきや、しゃあしゃあと矛盾した言葉を繋げ、卿はとんでもない事実を俺に伝えてきた。……親父の、友人?

「彼と最後に会ったのはここヴェネツィア共同墓地シミテッロ、聖ミケーレ島だった。珍しく雪の降る日で、私もたまたま死者に用事があって墓地に赴いたところ……彼が独りでそこにいた」

タルボットは緩く目を閉じ、記憶の底から言葉を汲み出した。

「彼は祈っていたよ、雪に埋もれた墓の前で。誰の墓かと問えば、名前も知らぬと言う。だが私は知っていた、その頃起きていたトリエステの聖典紛争で彼が『救わなかった』人間が、何人かここに葬られたということをね」

情景が浮かぶ。雪の降る墓地は、死地にも似た生者の希薄な世界。その自らの地獄に跪き、自らの生んだ墓石に花を供える姿が、あの炎の中の切嗣の姿に重なった。

「死ねば終わりだがね、と私は告げたよ。特に魔術師ならば、死とは単なる存在限界に過ぎぬと知っておろう。故に、例え彼らを殺した英雄が墓に参ったところで、既に存在しない彼らには何の影響もない。墓とはあくまでそれを知る生者の為のモノだろう、彼らを知らぬ君が何とする、と」

「……親父は何て?」

「くく、それがだな、安心しろ、君の墓には花一本手向けぬから、だそうだ」

彼は心から、さもおかしそうに笑っていた。

意外ではあった。切嗣がそんな冗談を言う相手が、その記憶をこんなに楽しそうに語る人間がいたのだ、ということが。

俺も釣られて笑いかけた刹那、だが彼は不意に笑みを消し、


──未だに、わからなくなる、と」

切嗣の言葉を、この部屋に再現した。


「彼は言ったよ。世界の為、弱者の為、生き残りし者の為と言いながら、終わることなく戦い続けて何になるかと。その果てに何があるか、自分は何故彼らをここに埋めたのか……とね」

言葉自体は平凡ながら、その場に降っていた雪の温度すら伝わってくるような、それは古き呟きだった。

驚きはあった。正義の味方の心得。救われぬ者を切り捨てる道を、切嗣は澱みなく選んでいたと信じていたのに。

……いや、同じ鉄を心に持つセイバーですら、あの迷いを持ったのだ。自身を落第者とすら呼んだ切嗣の言葉は、それと同質ではなかったのか。子供のような一面も持っていた彼が悩まなかったはずはなかったのに、彼を理想と崇めた俺は、その発想を心の何処かで切り捨てていたのだろう。

そうしてタルボットが応えた台詞は、恐らく彼が真に切嗣の友人であったが故に、俺がかつてセイバーに向けた言葉を思わせた。

──ならば辞めてみるか、と私は問うた。戦争も、謀略も、英雄も、魔術師であることすら辞め、全てを捨ててみるか、と。きみが望むなら、私は今すぐにでも最高の封印師を呼ぶぞ、とまでね」

別に職務を思い出したという訳でもなかったのだが。彼はそう最後に言って口を閉じた。


(もういいから、自分の為に、笑わないと)

鋼の道を歩む者に、その言葉を届ける困難を知らぬタルボットではないだろう。一度理想を掲げた者は二度と還せぬ時を持ち、歩みを止める事など許されない。だが、それでも───

正直、聞くのは怖かった。だがそれでも、俺は自らが目指した男の答えを、聞かずにはいられなかった。

「親父は……切嗣は、何と答えたんですか」

しかし、デイヴィッド卿は途端にとぼけた表情を浮かべて肩をすくめ、

「さて、随分昔のことだからな。もう忘れてしまったよ」

なんて答えてきやがった。

目の前の男の瞳を真っ直ぐに睨みつける。
だがその奥底に、決して笑っていない何かを見つけてしまった俺は、それ以上の追及を諦めざるを得なかった。


「さて、今日はもう帰って結構。明日の夕刻にはいよいよ降霊式が完成するからな、十分に鋭気を養っておくように」

組織の長たる顔に戻って立ち上がり、これでお開き、と宣言する卿を前に、もはや俺たちにも留まる理由はなかった。

今日の謝意を述べ、俺たちは紅いローズウッドの扉を開いて執務室を後にした。

重く厚い木の扉。それが閉ざされればその声が彼らに届かぬことを知りつつ、デイヴィッド卿は若者達が去った後へと向けて語りかける。

「アレは何も答えなかったな。ただ透明すぎる笑みを浮かべて、何も。私もそれが分かっていたからこそ、あんな冗談が言えたのさ」

僅かに湧いた感傷を許しがたいと思ったのか。

彼は机上の小箱から不死者となってもやめられぬ悪徳、シガーを取り出した。軽く持ち手に視線を送ると、その先端が一瞬赤く輝き燻り始める。


「誰を生かし、誰を殺すのか──いずれにせよ」


いつもの癖で吸口に軽く下の牙を差し込むと、感傷を深々と流し去る前に、彼はかつて古き友人に投げかけた最後の台詞を再び口にした。


「君にはどうせ捨てられぬ。悩むだけ無駄さ」

5: unlimited dream works

夏の夢の錬鉄。

真夏の太陽もようやく沈み、眩いほどの月灯りの下、ヴェネツィア本島からモーターボートを飛ばすこと数十分。干潟に浮かぶ比較的大きな無人島。そこにぽつんと建つ教会が、今回の儀式の祭壇だった。

「へえ、教会で魔術儀式なんてね」

面白がっているような声で遠坂が言う。
それはそうだ、魔術協会と聖堂教会が反目しているという事実以上に、そもそも教会とは異端を忌み嫌い、魔術を否定する場なのである。

「教会との取引の見返りでしてね。私たちはいくつかこういう廃教会を連中から譲り受けて、こっち側の神殿に造り替えているのです」

と、隣の魔術師の一人が説明してくれる。今日はルチア、デイヴィッド卿に加え、四人のタラマスカ員が儀式要員として同行していた。

「ヴェネツィアは閉鎖された聖堂が多いし、ま、その辺は一応協会と教会のパイプ役の役得ってことね」

と、先導するルチアがフォローを入れる。

「元々神の家として建てられてるだけあって、神霊基盤さえ取り除いてしまえば各種結界との相性は結構良いものよ。ゼロから陣地を作るよりはよっぽど楽ね」

実際、もう目の前となった教会に荒れた様子はなく、無人島とはいえ人の手が入っていることが見て取れた。

正面の扉にルチアが手をつき、防護結界を解呪して押し開く。中に足を踏み入れると、天蓋から指す僅かな月灯りが聖堂内を照らしていた。

彼女は手馴れた様子で、別の固定呪に触れ、仕込まれた魔術を発動させる。側廊や祭壇に置かれた無数の蝋燭に一斉に火が灯り、かつての神の家を照らしあげた。

信徒席の長椅子はそのままに、流石に両翼や正面の聖者の像、宗教画の類は持ち去られている。祭壇の手前、丸天蓋の真下の広い空間は、本来あるべき説教段などは取り除かれ、そして今は今宵の召喚のための魔法陣のみが刻まれていた。

デイヴィッド卿は扉を入ってすぐの信徒席に腰掛け、鷹揚に手を挙げて他のメンバーを儀式空間へと促した。……そう、このおっさんは単なる見物客としてここに来たのである。

「私はイギリス人だぞ? 祖国の英雄、かの高名なるブリテンの王を自分の足元で呼ぶと言うのに、眺めに行かない道理があるものか」

協会のお偉方ってのはもう少しお堅いモンだと思ってたけど、この好奇心の塊やルチアの反応を見ている限り、魔術師組織に限っては上層部なんてみんなこんなモノかもしれない。

……さておき、降霊に適した朔は長くは無い。儀式を行う七人の魔術師は無言のまま、事前に決めた準備を始めていた。

ルチアを先導者とする、五人のタラマスカの魔術師。ルチア他二人が封印式を扱い、残りの二人が降霊術を制御する。そして遠坂とイリヤが解析した大聖杯の術法を提供し、セイバーの招来は行われるのだった。ちなみに、七という数はサーヴァントシステムにおけるマスターを表し、儀式の模倣の為に必要なのだとか。

衛宮士郎はこの七人には含まれず、よって術式の制御には参加しない。俺の役目はあくまで、無数の架空存在から「アルトリア」を引き寄せるための「触媒」だ。受肉を必要としない降霊術とは言え、英霊はその英霊との繋がりが無ければ召喚できないことに変わりは無いのだから。


「確認するわね。わたしたちが詠唱に入っても、とにかく身体は楽にして、セイバーの記憶だけを思い描いておいて。特に召喚の時のこととか、強い繋がりを感じた時のこととか。想いさえ強ければ、あのデートの日のコトでもOKよ」

遠坂は最後にそう小さく笑って、そして真顔になって俺の目を見据えた。

「自分が何処にいるのかだけは忘れないで。我をなくしたら帰ってこれないわ。……躊躇い無く自分の命を賭けちゃうようなバカは、まだまだわたしの下で教育しなきゃいけないんだから」

僅かな沈黙。視線が交差し、お互いの瞳の底にある硬さを確かめ合う。やがて遠坂は諦めたかのように、俺の肩を抱いて明言した。

「大丈夫。士郎ならできるわ。夢の成就とうえいに掛けては、あなたの右に出る魔術師はいないもの」

それはまるで聖杯戦争の頃を思わせる、戦友としての彼女の力強い信頼だった。

ルチアと共に、円形魔法陣の中心に立つ。

六方の魔術師の一角、イリヤにそっと目を向けてみる。心なしか強張った表情の彼女だが、俺の視線に気がつくと、大丈夫、とでも言うように黙って微笑んだ。

……イリヤには死ぬほど怒られた。アインツベルンの悲願として組まれた聖杯、アインツベルンの錯誤で冒された聖杯。その精算に俺を使うことに、彼女は必要以上に責任を感じているらしい。──アレの破壊はセイバーと俺の誓いであり、イリヤに責任など一切ない。そう言ったら、それまでの三倍怒られた。あまり怒られたので、お説教の続きは帰ってからだと宣言されてしまった。

二人の言いたいことは分かる。この身を捧げる決断に悩まない俺は、何処か歪んでるのかもしれない、と。でも、それは走り続ける以上は──

「始めるわよ」

ルチアが高らかに宣言する。魔力の渦が辺りを駆け巡り始め、七人の声が共鳴を始めた瞬間、


───鋼の暴風が全身に叩きつけられた。
   目は脳までめり込み、
   上げようとした腕は千切れ飛ぶ。
   痛みは無く、ただ破壊の度に我が死ぬ。
   自分の心象世界がめくりあげられ、
   何処までも青い鋼の大気の中、

本来ならば指すら上がらない。だが。

   彼方に金色の少女が見える。
   手を伸ばす。爪がはじけ飛ぶ。

イリヤは、かつてこれに耐えていた。
いや、こんな七人の魔術師とは比にならない、七人の英霊の魂をその身に叩き込んでいたのだと。

   手を伸ばす。骨が砕ける。
   手を伸ばす。これでは届かない。

それでも前へ。桜にもこの危険が迫っていたと。その全てを見過ごしていた己が無知への怒りを。

   手を伸ばす。誰かが横を歩いている。
   手を伸ばす。何かが手を支えている。

追いかけるしかなかった切嗣の背中。
見誤っていたセイバーの背中。

   手を伸ばす。鋼の鈴の音は近く。

今一度だけ、もう一度だけ、彼女の力を───

   手を伸ばせばそこには、
   あの日求めたユメのカタチが───


(術式はもう───れよりシロ───引き戻し───いで───やく───!)

──ロウ! そこまでよ、シロウ───!」

一段と高く魔力の奔流が猛る。前方から吹き付けていた鋼の風が急に逆流し、前へと掛けていた重心ごと彼方後方へ吹き飛ばされようとした瞬間、

全ての音が消えた。

身体は鋼のように硬直したまま。全身が前のめりになった状態で、両腕をそれぞれ遠坂とイリヤが引きずり戻すように支えている。

──その手のひらの感覚で、俺は衛宮士郎の存在を思い出した。五感が戻り、筋肉が活動を再開し、全身から突然汗が噴き出してくる。

見回せば、蝋燭の光と天蓋から差す仄かな月灯りの中、床に刻まれた魔法陣が安定した輝きを放っている。遠坂もイリヤも、術式構築位置から飛び出して、俺を「引き戻して」くれたらしい。

呼吸を思い出す。大きく息をつき、そこで初めて降霊術の成否に想いを馳せた時、

「道は開かれた。来たれ、幻想を断つ王よ」

俺の隣でルチアが高らかに宣言する。

───降臨はあくまで静かに。魔法陣の柔らかい光が眼前の空中に道を開く。
その下には、選定の剣を両手で胸前から床に構え、銀色の鎧に身を包んだ高貴なる王が、幽体にも関わらず静かなる威厳を伴い立っていた。


「セイ、バー─────


動けなかった。この足は今にも駆け出しそうになるのに、全身が金縛りにあったかのように、心があまりに苦しくて動けない。

見まごう事なき姿。いや、むしろあの冬に夢の中で見た、澄み切った大気の下で己が軍勢を眺めていた、尊き姿そのものの彼女。

閉じられていた彼女の目が開く。
彼女は僅かに頭を巡らし周囲を確認すると、聞きまがうことなき声で俺たちに語りかける。

「我が名はアルトリア。かつてアーサーと呼ばれた王でありし者。──望みは何か。その願いの純なる故に、余は汝らの招きに応え来た」

だが、その口調はセイバーのそれではなく。

伝説のアーサー王でこそないが、それは紛れも無く、アルトリアという一国の王の言葉であった。

つと、彼女の視線がこちらを向く。その先には俺とルチアの他に、遠坂とイリヤが立っている。

「ああ、そなた等は余に所縁の者と見受ける。……だがすまぬな、この身はかつて無数の世界を駆け抜ける亡霊であった故、確率の雲から個々の記憶を呼び覚ますのは難しくてな」

……それで、呪縛が消えた。

そう、これは理想なのだ。彼女は聖杯を追う英霊から、一生をその国に捧げた一人の王に戻って死んだのだ。永く聖杯を追い続けた記憶は残っているとは言え、今やそれは夢の一部に過ぎない存在となっている。それこそ、自分の願いだったのだと──溢れそうになる声を、俺はその考えだけでかろうじて押し留めた。

俺はルチアと共に跪き、事前に打ち合わせていた通りの台詞を彼女に伝えた。

「斯様な末法の世にて御意を得ます、陛下」

「我ら、邪なる試み、この世の穢れたる聖杯を破壊せんと欲し、そのお力を借りんと請い願う者。かつて歪な聖杯を破断せし陛下の高貴なる意志の結晶を賜り、我らが呪法の礎とさせて頂きたく」

こちらの目的を知って安心したのか、アルトリアは若干姿勢を緩め、こちらに語りかけてきた。

「なるほど。確かに余は、己が過ち故に求めてきた聖杯をこの手で断ち割った者。うむ、そのような目的であれば喜んで力を貸そう」

そう力強く言う彼女の瞳は、冬の夜に俺の騎士たらんと誓った、あの真摯な瞳そのものだった。

「……だが余も魔術を嗜むとはいえ、意志の結晶化のような術は心得ておらぬ。そなたらの助けがあるとみてよいな?」

「無論です。これに控える者は、目に見えぬ構造体を読み取り、自らの魔力を以って形と成すことに長けた魔術師。無礼をお許しいただき、この者に王の御心をお開きいただけないでしょうか」

そう言ってルチアは俺の背中を押し、俺はアルトリアの前へと一歩足を進めていた。

知らず、鼓動が早まる。彼女の翠の瞳。凛としつつも柔らかな表情。編み上げられた金色の髪は、ひとたび解けば手から零れ落ちそうなほど軽やかに広がることを知っている。

忘れられない。忘れるわけがない。

自分が今までにただ一人、心の底から愛した一人の女性。その人が目の前にいる。霊体ゆえ触れる事すら叶わず、相手は自分の記憶を失っている。だがそれでも、彼女がセイバーであることに変わりはないのだから。

「許す。我が霊体に触れよ魔術師。この身を包む真鋼を通し、我が身の内に手を触れるを許す。……汝が、余と浅からぬ繋がりがあるのは何処となく分かるのだ。それ故、この召喚に応え、これを許すのだと忘れるな」

その何故か言い訳がましい口調は、威厳こそ異なれど、道場でちょっぴり拗ねた顔を見せたときのセイバーのそれと同質。……そう気づいて、ふっと気が楽になった。

俺はさらに一歩を踏み出し、左腕を彼女の胸に向かって伸ばす。不意に彼女の柔らかな身体の記憶が蘇り、それを無理矢理捻じ伏せた。

「失礼します、……陛下」

その鎧に手を触れ、そのまま押すように力を込める。実体こそないが、僅かな霊圧を感じた後、すっと胸の中に手が引き込まれた。


───その刹那。

(見上げる瞳は真っ直ぐで、純粋だった。エミヤの名を関する魔術師には不安も感じたが……今ならば、切嗣が隠していた優しさを思い起こすこともできるが、それでも彼は切嗣以上に、騎士として誇りを持って剣を捧げられる相手だった)

これは。この流れ込む記録は。

(私という存在を正面から見据え、私の過ちに迷うことなく手を触れたシロウ───

蘇る冬の日々。懐かしい記憶。駆け抜けた果ての無い道行。俺はその流れ込む想いから、思わず目を、いや心を背けた。

(……こんなのは、卑怯だ)

俺は何も伝えられないのに。俺は何も返せるものがないのに。なのに、俺は感じてしまった。そこに満ちていた、彼女の俺に対する限りない感謝の念、そして深い、深い、想いを。

例え目を背けても、幻の時は左腕から俺の心へと流れてゆく。俺と彼女が出会い、手を取りあい、喧嘩をして、笑って、泣いて、抱き合って、そしてあっという間に、別れた日々が。

───視える。金色の光。長い石段を登ってゆく。この道の果てに、俺たちが誓ったカタチがある。黄金の頂の向こう、紫色の朝靄の中に。

無意識のうちに左手を伸ばし、この身に落ちる二十七の魔術回路が開く。元よりこの身はただそれだけに特化した魔術機関、こと彼女に関する限り、この身体に不可能は無い。

かつて、漆黒の泥の中で彼女の鞘を求めたかのように。今は清冽なる大気の中、彼女の想いを自らの心の内に投影する───

懐かしい想いが擬似神経を満たしてゆく。荒れ狂う魔力も、一切の強引さも無く、そして。


俺は無意識のうちに再び跪いていた。

いつしか俺の腕は彼女から離れ、その手は温かな光を、しっかりと握り締めていた。

───王の剣を模した儀礼剣。小さな小さな、黄金の鞘を持つ聖剣。

短刀ほどの長さしか持たずとも、込められた魔力は深遠。破壊のために振るわれるモノではなく、ただ聖杯を破却する、その願いのみに特化した概念武装。

それは、アルトリアという少女が自らの夢の果てに下した、尊き決断の結晶そのものだった。


──良かった、成功したのですね」

セイバーが安堵の息と共に呟く。俺はゆっくりと立ち上がり、そしてルチアと共に、手にした剣の存在をしっかりと確かめた。

「ええ、間違いありません。この剣ならば確実に、かの大聖杯でも破却できましょう。……陛下、いやアルトリア王、本当に感謝します」

成功を噛み締める間こそあれ。

ルチアがそう口にするのを待っていたかのように、安定していた魔法陣に揺らぎが走る。満ちていた魔力が僅かに零れ出し、目の前のセイバーの姿にも掠れが走る。降霊の朔の終わり。彼女を繋ぎ止めておける時間は、元より長くは無い。

「セイバー、俺は──────

言うべきことは無いのか。言いたいことはないのか。あの日の別れには全てがあり、もうここで尽くすべきものは本当に無いのか。


今まで雲に隠れていたのか、不意に強い月の光が天蓋から差し入れる。
それは、出会いの夜の再現。銀色の光が、さっきよりも優しい表情をした騎士の姿を照らし出す。その姿はあの時と一切変わらず、そしてあまりに綺麗過ぎて、俺はやはり言葉を失った。


「そろそろ私も行かねばならぬようです」

セイバーが告げる。ルチアを始め、周りの魔術師たちが威儀を正し、魔法陣の最後の働きをもって、彼女を静かに送ろうと勤めはじめる。

だが、俺は、その言葉に。
私。彼女は今、そうだ、さっきの彼女の声も───


──シロウ、貴方は今も、夢を追って走り続けているのですね」


紛れもなくそれは、お互いに命を預け、共に過ごした少女の声だった。

「私にも視えていました。貴方の願いが。貴方の想いが。それがこの胸に、どんなに温かく染み込んでいたかを思い出させてくれた」

その右手を、俺が差し入れていた胸に当て。そっと呟く様が、彼女と最後の夜を誓った時の記憶に重なってゆく。

──ああ、セイバー。俺は走るのをやめないし、おまえの想いも、ずっとここに」

あの夜、彼女が俺から鞘を取り出した心臓の上。俺もそこに手を置き、お互いがそこに在ることを確かめる。


月の光が零れる。


「ああ、ベディヴィエール、卿は正しかった。
これは確かにこの上ない、夢の続き───


束の間、雲が再び光を遮る。
魔法陣が揺れ、聖堂内を静かな風が舞う。


辺りが光と静寂を取り戻したとき、
もう、そこには誰もいなかった。

6: starry starry teaparty

星降る夜に一杯の紅茶を。

花火の打ち上げが始まった。

日本で見慣れている花火も、その煌きの中に教会の鐘楼が浮かび上がり、打ち上げの音が教会の鐘の音の如く石造りの街に響き渡る様がとても不思議。そもそも疫病払いを祈願して始まったというこのお祭りレデントールは、同じような起源を持つ京都の祇園を思い出させ、見慣れたものと異質なもの、そのギャップが何とも言えない楽しさを醸し出す。

夏の始まり。俺たちにとっては、このヴェネツィアで過ごす最後の夜。喧騒を圧する響き、魔術を思わせる光の乱舞の中、俺たちはルチアさんが用意してくれた小船で海に浮かび、しばらく押し黙って空を眺めていた。


「無事に終わってよかったね」

イリヤが静かな声で呟く。彼女の小さく冷たい手が、まるで俺が壊れ物であるかのように、そっと俺の手に重ねられる。

「まだ終わったわけじゃないけどね。むしろ帰国してからが本番なんだけど」

一方の遠坂は空を見つめたまま、ふっ、と力を抜いて笑みを浮かべていた。

「でもホント、巧く行って良かった。最後の夜ぐらい、何も考えないで楽しみたかったもの」

火薬の舞い散る音、一時だけ戻る静けさ。
二人が寿ぐものが、武器の錬鉄ではないことを知りつつ、誰もがあえてそれには触れなかった。

そこに触れることで、この場で共有する危うい何かが壊れてしまう気配を、三人ともが感じていたからかもしれない。


夏の祝祭は終わり、水面を彩る船の灯りもまた、夜空の花火の如く散ってゆく。

「士郎は……これからどうするの? ううん、聖杯の話じゃなくて。これから時計塔に行って、わたしから魔術を学んで、それから───

少しずつ静けさを取り戻してゆく海の上で、遠坂はゆっくりと問いかけてきた。

「……怖くは、ないの? 死ぬコトとかの話じゃないわ。誰かを守るという夢を抱いて、走って、走り続けて。あの頃のセイバーを知り、かつての切嗣さんを見せられても───心が鉄になる恐怖はないのかな、って。何か自信があるのかって、そう思っちゃうのよ」

祈るように紡がれる言葉は、あるいは俺の未来を彼女なりに予見しているからかもしれない。

それは遠坂ならではの、本当に心からの率直な思いなのだろう。正直、その気持ちは嬉しい。

「アーチャーも言ってたわ。守りたいと言う夢だけが残り、理想も、幸福もなくしてゆく正義の道は、不毛の道に過ぎないって───

無数の火花が夜空を飾る。絶え間なく音というエネルギーを撒き散らし、永続する星空を目指しながらも、決して残る事のない刹那の光。

「……自信なんてあるわけないさ」

遠坂とイリヤが振り返る。

「この道の果てに何があるのか、俺は何処へ行こうとしてるのか、俺自身だって分からない」

背中を追った切嗣と、背中を預けたセイバー。

例えその道が歪んだ鉄だとしても、その二人が体現したものが、間違いだったとは思えない。あるいは、誰かを守るという夢が、破れる宿命にしかないとしても。

今一度だけ、彼女の姿を見た。

交わした言葉は少なく、冬の別離を越える何かを伝えたわけでも、もらえたわけでもない。だがそれでも、走り続けることの尊さだけは、今一度、確かめることができたのだから。

「だから……信じるしかないだろ」


遠き日々。共に駆け抜けた冬。
消えるが必定の夢と言うならば、
あれ以上の夢は何処にも無かった。
だが、それでも信じている。


「大丈夫。シロウならきっと大丈夫だよっ」

イリヤが急に気分を切り替えて抱き付いてくる。

「ま、それもそっか。んー、わたしもまだまだコイツを鍛えて、せいぜい大口に見合う腕にしないとなー」

二人の少女はそれぞれの儀礼を以って、この夜の空気、真夏の休暇に幕を引いてゆく。俺もまた、この夏の逢瀬を心の形にし、夢の終わりを告げた。

……そう、信じて歩いていくだけさ。
  俺たちの夢の、続きを───

─THEIR DREAM ECHOES IN ETERNITY.

あとがき -postscript-

ようやくWeb版の公開となりました。2005年の夏に発行したFate小説、estate dolce. 以下に当時の後書きを載せておきます。

お疲れ様でした。以上、お相手は維如星にて。"Fate/estate dolce"をお届けいたしました。Fateの二次創作小説本もこれで三作目。あまり今まで書けていなかった、のんびりとした彼らの日々を書いてみたかったのですが、蓋をあけてみれば「それなり」のイベントを組み込まざるを得ませんでした(苦笑)。もっとあっさりとまとめるつもりが、お遊び部分の尺がどんどん長くなってしまい、最後が若干駆け足気味になってしまったのは毎度のことではあります。……無念。

さて、今回のお遊び2つ、タラマスカとヴェネツィア。設定厨ぶりが炸裂してしまい、正直受け入れられるかとても不安だったりします。

前者のタラマスカとは、アン・ライス女史の名作ゴシック小説、ヴァンパイア・クロニクルズに登場する組織です。もちろん、彼らが協会に所属してるなんて設定は原作にはありませんが:)随所に既読者ならばニヤリとするシーンを入れてみました。また総長たるデイヴィッド・タルボットは完全に別人になっています。タルボットファンの皆様、私も一応ファンですんで投石はお控えくだされ。ヴァンパイア・クロニクルズは、一作目の「夜明けのヴァンパイア」が「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」として映画化され御存知の方もいらっしゃるかと思いますが、二作目以降からは主人公が代わり、一作目も主人公ルイの悲しみの描写の美しさはすばらしいのですが、より世界全体の美しさに文章が拡大している感じです。是非ご一読あれ。

後者のヴェネツィアについては、当方Webをご覧の方はご存知だと思いますが、如星は重度のヴェネツィア狂なのです。二次創作で別の偏愛を使ってしまうのは禁じ手だったかもしれませんが、正直、Fate世界との相性は悪くなかったのではと思っています。実際あの街を歩いていると、滅びに向かって疾走する、それでなお美しく意味を持つ存在、というものを肌で感じることができます。なお本当は巻初にヴェネツィア共和国の解説文を載せる予定でしたが、本文中で凛に大演説をさせてしまったのと、そこまで如星の偏愛にお付き合いいただくのは恐縮でしたので(笑)、今回はカットさせていただきました。ヴェネツィアを御存知の方以外には分かりづらい面もあったと思いますので、Webなどでフォローできるといいんですが。

この三作目になって、初めて「凛とイリヤを書くのが楽しい……!」と心から思えるようになって来ました。彼女らがようやく心の中で動き始めたというか。二人とも、じっくり付き合ってあげるとより可愛さが増すタイプの娘ですね(笑)。なお、凛ビキニのくだりは武内氏がSecret Bookで語られた公式設定(!)を読んで急遽追加されました。凛ネコミミだよ凛。そしてやっぱり、セイバーっていいですねぇ……。今回も出番こそ少なかったのですが、清冽というイメージを当てはめられるヒロインは彼女のみ。もっと彼女に焦点を当てたいですね。

【ちょっとした解説】
  • 協会本部:ロンドンが発展したのは比較的最近(?)のことなので、それ以前は何処にあったのかという興味から、ヴェネツィアを設定してみました。なんか巧い愛称が浮かばなかったのが残念。

  • アイズ・オブ・セブンティーンス:直死の魔眼を英語で言うとどうなるか。「死神」じゃ普通なので、死体の俗語である17と、17分割を掛けてみた次第。…あ、元々そういう寓意なのかな、17分割って。

  • 神霊眼(エーテルアイズ):なるしまゆり「少年魔法士」を見てください(笑)。奈須世界でいう第三魔法を魔眼で使えちゃうという神域の眼。漫画としても個人的にはかなりお勧めです。

それでは、またいつか何処かでお会いしましょう。アリーヴェデルチ。

2005.08.estate dolce後書きより

さて本作品公開後、この話の続きは書かないのかというご意見をちらほら頂戴いたしました。如星の中ではこの物語はここで完結しており、特に続き(聖杯破壊作戦)を書くつもりは無いのですが、ちょっとだけオマケ的に、この後書いたホロウ物・hollow/avenge nightにて触れさせていただきました。そっちも早急にWeb化したいですね。

しかし今こうして改めて読み返しても、なんちゅーかヴェネツィア偏愛度の高い作品ですな。独自設定大爆発の一本でしたが、意外にも読者の方々には好評だったようで何よりです。そしてFate作品はこの後ホロウ話を書いた後に中断してしまっているのですが、Fate/Zeroが出たりPS2版も出たりと動きのある中、またこの凛とイリヤを書いてみたいなぁとふつふつと思え始めてきました。そのときはまた一つよろしくお願いいたします:)

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