VERBA VORANT, SCRIPTA MANENT.

「君が望む永遠」短編小説

維如星ウェイ・ルーシン

雨が、降っていた。

例え太陽の光が隠されていても、鈍色の天井に閉ざされたこの空間には関係がない。眩しいぐらいの水銀灯の反射を受けた水面が、私を誘うように揺らめいている。

『これより、女子100m自由型、予選を行ないます……選手の方は……』

辺りを包む歓声も何処か遠い。

ともすれば目の前の勝負を忘れてすらしまいそうになり、その度に私は気合を張りなおす。それでも、普段身体を包むはずの心地よい勝負の高揚感は遂に訪れず、次々と湧き上がる雑念が頭の中を巡り巡る。

ふと、私の名前を呼ぶ後輩たちの声に、私は無意識のうちに笑顔を向け軽く手を振る。すっかり習慣付けられてしまったその行為に、私の心はまた憂鬱の度合いを増していく。


──何のために、誰のために、泳ぐのか。


『……速瀬水月、白陵大附属柊学園』

飛び込みさえすれば、身体の重みを全て預けさえすれば、全てを忘れさせてくれる水面を目の前にしながら、私の心は定まらない。

泳ぎ続けるということ。記録への挑戦。嫉妬との戦い。そして……この長い髪への意地。その全てが、私を水の中で前へと進めてきたはずなのに。

彼氏のひとりでもいれば、こんな時でも頑張ろうって思えるんだろうか。とめどもなく溢れる、埒もない夢想。

この夏、私の周りで、いろんな事が変わろうとしてる。この夏、私のことを真っ直ぐな目で見てくれる数少ない友人たちは、またほんの少し遠くなってしまった気がしていた。


不意に脳裏を一つの台詞がかすめ去る。

(もしオマエに彼氏ができたら、こうやって遊ぶこともできなくなるだろうからな。それはさ、そりゃ……チョット残念かな)

──なんで。

「なんでここで、あのバカの顔が出てくるかなぁ」

私の心に刻まれた、遠慮も気負いも生まない、素直に笑い返せる孝之の笑顔。だがその直後に、いつものように浮かぶもう一人の姿がある。あの七月の終わり以来、孝之の記憶にかぶさるように浮かんでくる親友の声──涼宮、遙。

遙が孝之の彼女となったあの日以来、私の心は宛てもなく、同じ所をぐるぐると彷徨い歩く。遙と孝之の間を、終わることなく。


遠い雨音。

耳に届く歓声がひときわ大きくなる。

水面は、すぐそこまで迫っていた。

君が望む永遠 “08.27” 記念サイドストーリー

親友の記憶は雨に濡れてthe precious memories

維如星ウェイ・ルーシン

【1】

甘い紅茶の香りが遙の部屋を満たしてゆく。

誰がどう見てもイメージ通り、遙の部屋にピタリとはまるシチュエーションだ。うーむ、やっぱり生活のグレードが違う。飲み物といえばインスタントコーヒーの俺には縁の遠い香りに包まれながら、俺はそんなことをぼんやりと考えていた。

「頭が疲れてる時はね、こういう強めのお茶がいいんだよ」

茜ちゃんが入れてきてくれた紅茶を俺の前に置きながら、遙がそう解説する。アッサムのフルリーフがどうとか……。勉強のときはこのお茶、か。しかし姉の指示がなくてもこの茶葉を選ぶ辺り、茜ちゃんもさすがは姉妹の呼吸ってヤツを心得てるんだな。

……姉の部屋を覗く辺りは洒落になってないけど。

はは、さっきはマジで危なかったぜ……。

「それにしてもいい天気だね。朝の大雨が嘘みたい」

「夏でよかったよなぁ。こう暑けりゃ、天気のいい日に引きこもって参考書広げてても鬱にならねーで済むからな」

「もう、孝之くんったら……」

ケーキをつついて紅茶を啜る。

受験生に許された、ほんのひと時の休憩。俺と遙がこうしているなんて、まあ一ヶ月前には想像も出来なかった話だ。

「来週の夏祭りかあ……ふふっ、楽しみだねっ」

来週末、速瀬に誘われた夏祭り。

でも遙がそれを聞いたのは一週間前の話だ。水泳大会のこと、彼氏のことのある今の速瀬が、本当に俺たちと祭りに出かけるかは正直分からない。

俺はそんな微妙な心を振り払おうと、遙にちょっとしたいたずら心で話を振った。

「あー遙、来週のも花火上がらなかったっけ? 苦手なんじゃなかったのか?」

「あ、えと、そ、それは……。で、でもっ、今度は孝之君がもっと近くにいてくれるから……」

──俺は照れた。

軽い冗談にそんな台詞を返されると、こっちが恥ずかしいじゃないか。

俺は照れくささを誤魔化しながら、とっさに考えていた事と反対の台詞を口にしていた。

「ま、まぁまた今度も速瀬の『屋台食べ歩きツアー』になりそうな気がするけどな」

「水月って屋台好きだからね。……あ、孝之君知ってた? そういえば水月ね、今日大会だったんだよ。水月優勝できたかなあ……?」

先刻の俺の戸惑いを知ってか知らずか。

遙の何気ない台詞に、俺は一瞬言葉に詰まる。──速瀬の大会。遙は知らないけれど、俺はついさっき、茜ちゃんからその結果を聞いてしまっている。

あいつ、ホントどうしたんだろうな。何か訳があってのことだろうけど、速瀬の負けは俺の心に小さな引っ掛かりを残し続けていた。

そして俺がどう思おうと、遙は速瀬の友達だ。だったらやっぱり、遙自身が速瀬から直接聞く方がいい───俺はそう結論付け、遙に速瀬の話は黙っておくことにした。目の前で次の言葉を待つ遙に、俺は勝ち負けには関係のない曖昧な台詞を返しておいた。

「どーだろうなあ。勝負の世界ってヤツは何があってもおかしくはないからな」

そうだよね、と遙は小さくうなずくと、

「なんか最近、水月悩んでるみたいだったから心配だなあ」と、紅茶のカップを口につけたまま、眉をひそめて悩みモードに入っている。

速瀬、やっぱり何か悩んでるのか……。親友たる遙の言葉に、俺はその認識を確かなものにした。それにしても、速瀬の微妙な変化に気づいてる遙も、伊達に長いこと速瀬の友達やってねーよな。

改めて考えてみれば、今の俺はどうしても遙に意識が向いちまってるし、おまけにこの追い上げ受験勉強もある。ただその事実を、俺の友人でもある速瀬の事をなおざりにしている言い訳にしている気がして嫌だった。

先週のプールの帰り、ふと速瀬が見せた寂しげな表情。何処か遠くに思いを馳せているような、そんな空気をまとった速瀬。気になってないわけじゃないんだけど……な。

俺は速瀬のことが気になっていることもあり、ふと浮かんだ疑問を遙に聞いてみた。

「そういやさ、遙って速瀬といつから知り合いだったんだ?」

一年の時に同じクラスだったってのは聞いてるんだけど。そう水を向けると、遙は表情を緩めて紅茶のカップから口を離し、何処か懐かしそうに答えてきた。

「えーっと……割と入学してすぐの頃だったよ。水月と初めてちゃんと話をしたのは」

【2】

白陵大学附属高校柊学園。

伝統の名門たる白陵の名前に、新キャンパスならではの最新の設備。

新入生は桜の舞い散る校門をくぐり、この場所に立っている自分達の実力を誇り、幸運を祝い、新しい世界への期待に胸を躍らせながら入学してくる。

しかし半月もすれば、そんな新しい環境への物珍しさ、期待、不安も薄れてくるのは道理だ。そしてどこの学校、どこの環境でも同じように、その頃には要領よく自分の居場所を確保している学生もいれば、未だ不安と戸惑いの行き先を見つけられないままの学生もいるものだ。

──速瀬水月という生徒は前者に属し、涼宮遙という少女は後者に属していた。

(あちゃー、これで焼きそばパンは逃したかな)

弁当を持ってこなかった日には、授業後に隣の大学生協へと速攻ダッシュをかけ、人気のメニューをゲットする。そんな日常のリズムをつかみ始めていた水月であったが、その日は四時間目の理科実験室に、午後に使うノートを忘れてきてしまっていた。

早く戻らないと施錠されて、取りに行くのが面倒になる──水月は幸せな昼食への魅惑を断ち切り、人気の減り始めた階段を二段飛ばしで駆け上がり、理科室の扉を開いた。

そして、面食らった。

さっさと片付けて出てきたはずの実験テーブルの上に、使わなかったはずの物まで積み上げられた実験器具の山。その山の向こうを覗き込もうとしたその刹那──

「あっ、そのっ、ご、ごめんなさい……まだ片付け終わらなくて……」

水月が口を開く間もなく、何故かいきなり謝ってくる、おどおどとした声。見下ろせば明らかに混乱した状態の同級生が、収納棚とテーブルの間にうずくまっていた。

「……あのー、な、何してるの?」

驚きより当惑が上回った水月の呟きに、その同級生はますます慌てた表情を浮かべた。

「そ、そのっ、これをどの順番で仕舞ったらいいか分からなくなっちゃって、いろいろ出したり戻したりしてるうちにっ……もっと分からなくなっちゃったって言うか……」

彼女は息せき切ってそう一気に言い訳を並べてから、ふと水月の存在をもう一度認識しなおしたらしく、少し落ち着いてから上向き加減に相手を見つめ、口を開きなおした。

「あの……次の授業の方ですか? すっ、すぐに片付けますので……」

「あー、いや、そーじゃなくて」

水月は思わず苦笑を浮かべて、かぶりを振った。

「一つ、さっきは四時間目だったんだから今お昼だよ、次の授業はまだ一時間も先。二つ、だから私は忘れ物を取りに来ただけ。で、三つ……」

「は、はい」

「つまり私もさっきここにいたの。だから同じクラスだよ、私たち」

「あ……ご、ごめんなさい」

同級生の顔を覚えていない、という事実の前に、やたらと恐縮して小さくなる彼女。その反応を見て、水月は慌てて手を振った。

「あ、いいのいいのっ。そんなこと気にしない気にしないっ。あはは、大体私もまだクラスメイトの顔と名前一致してないから」

水月にとってその台詞は既に半分以上真実ではなくなり始めていたが、今そのことを殊更彼女に言う必要はない。

案の定、水月の言葉を耳にした彼女はホッと安堵の表情を浮かべた。が、すぐに目の前の惨状を再び思い出し、うー、と小さな呟きを漏らしている。

見かねた水月は思わず声を掛け、彼女の思考を促した。

「あのさ、早くしないとお昼食べる時間なくなっちゃうよ?」

「あ、私お弁当だから買いに行く時間はいらないし……。それに今日、あんまりお腹すいてないから」

その言葉に、水月の頭に閃くものがあった。

この時間から生協に行っても、早くも新入生の間で不人気ナンバー・ワンの、頭に良いと称した大麦の不味いパンぐらいしか残っていないだろう。であれば──

「じゃあこうしない? ここの片付け手伝ったげるからさ、少しお弁当わけてよっ。この時間から購買行ってもヒサンだしさ〜」

図々しく、かつ唐突に飛び出した水月の提案に、彼女は思い切り戸惑った表情を浮かべる。

「え? そ、そんな、悪いし……」

「早くここが片付いて、私は美味しいご飯にありつける。どう? 対等な取引だと思うんだけどな」

何処か論点のずれた会話だが水月はまったく気にしておらず、彼女は自分でも気づかぬままそのペースに乗せられていく。

「あのっ、わ、私のお弁当そんなに美味しくないし、それに……」

「この際美味しさの基準はあの『頭脳パン』よ? だからそのお弁当に少しでも思い入れがあるなら、あなたはこの取引に応じなきゃいけません。3、2、1、ハイ」

そんな彼女の戸惑いを振り切るかのように。

おどけた口調でポンポンと打ち出される水月の言葉に、遂に彼女も表情を崩した。

「あ、えと、じゃあお願いしますっ。本当は施錠されちゃう前に終わるかどうか不安だったから」

「その調子じゃ、5限が始まっても終わらなさげだけどね」

「ううっ、ひどいよぉ、……えっと」

そう言いかけて、彼女は不意に小さな笑みをこぼした。

初めて見る小さな笑顔は、まさに男子受けしそうな可愛い系なのね、などと思いながら、水月は不思議そうにその顔を見つめていた。

彼女は水月の問い掛けるような表情に気づき、先ほどまでの警戒を忘れたかのように、漏らした笑みの理由を自然に答えた。

「ごめんなさい、お名前聞いてませんでした。私、涼宮遙っていいます。あなたは?」

「あ、そっか」

水月もまた彼女の困った笑いにつられてクスッと笑った。新入生同士の、ちょっとした連帯感が生まれた笑いだった。

「私は水月、速瀬水月。よろしくね涼宮さん」

「は、はいっ。速瀬さん、よろしくお願いします」

二人の少女は儀礼めいた握手を交わすと、再び実験器具との格闘に取り掛かる。


もっとも数分後には、遙の天然ボケっぷりを水月は身をもって悟る羽目になったのではあるが……。

【3】

「一年の頭からの知り合いかよ。そりゃ長ぇな」

「そうだね……。だから三年生になった時に、水月と違うクラスになっちゃったの、ちょっとショックだったんだ」

遙は俺のカップに紅茶を注いでくれながら、言葉を続けた。

「でもそのおかげで、孝之君のことを色々教えてくれるようになったんだけどね」

「ははっ、まさに何がいい方に傾くか分からない、ってヤツだな」


俺は遙の言葉を心の中で考え直してみた。

どんなに長い付き合いでも、そいつらが必ず深い友人同士になるわけではない。

だけど、やっぱり時間ってのは大切だ。思えば俺と慎二も最初に知り合ったのは一年の頃だったし、遙と速瀬と同じく、あれから二年半の時間を同じ場所で過ごしてきた、ってのは大きいよな。

逆にいえば、遙と、そして速瀬とも、慎二に比べればひどく短い期間しか知り合っていないんだ。それでこれだけの事が話せる間柄になってるのは凄いと思う反面、まだまだ俺なんかの知らないことが幾つもあるんだろう、とも思う。

遙とは、今こうして付き合うようになったおかげで、それなりに昔の話なんかも聞くようになっている。しかし一方では、俺が速瀬のことを知るチャンスというのは、考えてみればあまり存在しない気がする。

例えば、あれだけ一緒につるんでいたと言うのに、速瀬と恋愛話をしたことは数える程しかない。数少ないそれも、今思えば遙のための俺の調査であり、実際あいつの話はことごとく逸らされて俺は速瀬の恋愛経験については何も知らないままだった。

「なぁ、遙って俺のことを速瀬に相談してたんだろ? 逆にさ、そういう速瀬自身は誰かと付き合ってたりしなかったのか?」

俺はそんな興味もこめて、もう一度遙に水月の話を振ってみた。

「うーん、私の知ってる限りでは、ないなぁ。水月ってもう二年の頃には水泳で大活躍してたから、あんまり恋愛とかする時間なかったんじゃないかな。それに……」

「それに?」

「あの頃はもう、実業団入りが視野に入ってきてたから……クラスの中でも、やっぱり特別扱いされ始めちゃったのも大きいのかなあ……」

──そういえば速瀬、俺や慎二のことを『自分を特別扱いしないから』って言ってたな。

それは逆にいえば、特別扱いしないヤツの方が少ない、ってことだ。その辛さは、普通に人生やってる俺たちじゃ分からないのかも知れない。

「水月もね、そういうところでは結構悩んでたんだと思う。前にね、少しだけだけど、私にもそんな話してくれたから」

そんな俺の考えを見抜いたかのように、遙も僅かに遠い目をして言葉を紡いでいた。

【4】

──遙はふと目を覚ました。壁の時計を見上げると、まだ午前二時。

あの程度ではほとんど酔いはしなかったけど、いつの間にか片膝を抱えて眠ってしまっていたらしい。彼女は大部屋の柱に背中を預けたまま、目の前の惨状を見渡した。

大部屋の畳一面にマグロの山、潰れた同級生たちが転がっている。記憶の中で転がっていた酒瓶は、いつの間にか誰かが片付けたらしい。気が付けば全員の身体に一応毛布が掛けられており、それは遙の足元にも一枚ずり落ちていた。

二年生の秋、修学旅行。

つまらなくも無いが平凡なその行程の最後に、こんな「大宴会」を企画した頭のいい(そして無謀な)男が一人いたのだった。確か平慎二といったその隣のクラスの男子は、引率教師を地元の銘酒で潰すという大技によってこの宴会を実現し、学年の英雄となっていた。

かくして飲めや歌えやの大騒ぎ、あちこちで語られる定番の恋愛トーク。

普段の遙には少し苦手な雰囲気ではあったけど、何故か生来持っていた酒の強さに助けられ、所詮は呑み慣れない同級生たちを一人、また一人と沈没させて巧くしのいでいた。深夜を回る頃にはだいぶ落ち着いた空気が流れていたはずだけど、その後の記憶は遙にも無い。

彼女は軽く伸びをすると、夜の空気を吸おうと立ち上がって廊下に出た。

さすがに少し足元をふらつかせながらも、彼女は突き当たりのテラスへと向かった。

──星が、綺麗だった。


街中にある旅館とはいえ、この辺りは白陵のある横浜市よりは明らかに空気が澄んでいた。降り落ちる星空は美しすぎて無機質ですらある。十月の終わりの冷たい空気が今は心地よいけれど、あまり長くいると冷えすぎてしまうかもしれない。火照った頭に冷気が染み込み始めた時、遙はふとその星灯りの下にたたずむ先客の姿を見出した。

一人の生徒がテラスの手すりに頬杖をついて、星の煌めく世界に見入っていた。

冷ややかな月灯りを受けたその姿は何処か儚げで、それ以上に生命離れした姿だった。


あるいはまるで、冷たい星の世界に魅入られたかのような。


その考えに少し肌寒いものを感じて、遙は思わず彼女の名前を呼んでいた。

「水月?」

彼女が星灯りを背に振り返る。

遙を認めて笑ったその笑顔は、もう見慣れた彼女の親友のそれだった。

「あ、遙。一緒に呑みに来たの?」

準備良く毛布を肩にまとっている水月。彼女は明るく笑うと、片手のグラスを振って見せる。その手元のミニテーブルには、空いたサワーの缶が数本転がっていた。

「あ、ううん、私はもういいけど……水月、ずっとここで呑んでたの?」

まじまじと自分の顔を見つめる友人に向けて、水月は苦笑して答えた。

「あー、違う違う、最初は大部屋だったよ。ただ私『呑み』の雰囲気は好きなんだけど、本当はお酒弱いからさ。自分が呑まないように楽しんでたんだけど……みんな先に潰れちゃったし。一応毛布は掛けたといたけど」

「あ、あれ水月だったんだ。空き瓶の片付けもありがとね」

「さすがに瓶見つかるのはヤバイしね。で、せっかくだから自分も少し呑んでみようかと思ったんだけど、あそこで一人でいてもつまんないしさー」

それでこうして夜空を眺めてたわけ。

水月はそう言って、手元のグラスを軽くはじいてみせた。

「そっかぁ。でも水月が一人でいるなんて珍しいね」

「そうかな? 私も遙があの場で呑んでたのにはちょっと驚いたけど」

「あ、私結構昔から夕食会とかで少しずつ飲まされてたから……いつの間にかそれなりに呑めるようになっちゃってたの」

遙が困った笑みを浮かべながらもコクコクとグラスを傾けている様を想像し、水月は思わずクスリと笑った。『夕食会で飲まされる』なんて台詞を自然に吐く、生活感の一味違う遙がマグロの山の中に一人座っている姿は、どこかシュールな想像でもあった。

そんな水月の空想をよそに、遙は言葉を続けた。

「うーん、なんか水月っていつも人の輪の真ん中にいる感じがするから。なんかちょっと不思議だなって、そう思ったの」

水月はその言葉に目を上げた。その目は空高く架かる冷たい月を見据えている。

「そんなことないよ」

それは遙が初めて聞く声。普段の水月からは想像のつかない、漆黒の硬さを持った声だった。


「『ヒトの中で一人ぼっちだって感じるより、独りっきりで孤独を感じる方がマシ』」


その言葉に、遙はハッとなって水月を見た。

月の光に照らし出されたその顔には、あの豊かな表情は無かった。ただその長く美しい髪だけが、夜風に揺れて星灯りを散らしている。

「水月……」

「今のって誰の台詞だっけ。なーんか、ふっと思い出しちゃった」

遙の声など聞こえなかったかのように、水月は静かな言葉を紡ぎ続けた。

「実業団の話が本格的になってからさ、みんなもその話ばっかなんだよね。もちろん、私は好きでやってることだし、他の人が期待してくれるのは凄く嬉しいんだけどさ」

それはまるで他人事のような口調だった。

「でもどうしてだろうね、彼らの同級生であるはずの『速瀬水月』って子は、どっかに消えちゃったみたいなんだ」

それっきり黙ってしまった友人の、表情の無い、と同時に笑いなどでは押し殺せぬ感情を込めた横顔を遙は見つめた。

いつも賑やかな集団の中にいて、その強さが羨ましかった水月。でも本当に水月を分かってくれる友人は、実はいなかったのかもしれない。……遙はふと、そんなことを考えた。遙自身、人の輪に入れず寂しい想いをしたことはある。だが、人の輪の中にいながらも孤独を感じるということは、一体どれほどの淋しさなのだろう。

例え距離は近くにいても、心が離れているという悲しさ。常に一人だという認識。

それが、記録の世界で生きていくという孤独なのだろうか。

そんな思いを乗せた遙の視線に気づいたのか、水月はふと彼女の方を振り向くと、その美しくも冷たい表情にかすかな微笑を浮かべた。

「そんな顔しなくてもいいってば、遙」

グラスに半分ほど残った液体を軽く揺すりながら、水月は続けた。

「結局さ、みんな同じなんだから」

「おんなじ?」

「そ。結局みんな、誰もが少しずつ外側の自分を演じてる。演じてる同士で、一緒にいて楽しい相手を探して過ごしてる。私はそれに、ちょっと水泳っていう味が加わっただけだから」

あっさりとした口調で言われたその言葉に、遙は何も答えられなかった。

「私はそれでいいんだ。自分の周りに、バカやって笑っていられる人がいてくれることが。記録の上の私を応援してくれる人達がいることが、それだけで嬉しいから」

そう言って水月はグラスを空にして、すぐに二杯目を注ぐ。

ずいぶんとペースが速い。彼女は一見普通そうにしているけど、実は相当酔ってるんじゃないか、と遙は思った。

……多分、そうだろう。でなければ、いつも八方美人の笑顔を浮かべている水月が、そんな自分の内側をボロボロと吐くはずが無い。


ただ、水月の言うことも一応分かる。

人は少なからず、相手に見て欲しい自分を演じている。その作り上げた上辺のところ同士で付き合っている方が、お互い見て欲しい自分同士で気楽にしていられるのだ。わざわざ相手の下に踏み込んで、その関係を壊すことなんてないのかもしれない。

それは、分かるのだけど。

だけど、ならば本当の気持ちは、何処へ行けばいいのだろう。

遙はふと、自分の想い人のことを頭に浮かべてみた。例えば今の飲み会に乗じて、彼と喋ってみればよかったのだろうか。彼の好きそうな明るい女の子を演じて、一緒にいた方が幸せだったんだろうか。

でも、もしそこで、孤独を感じてしまったら──

「ねぇ水月、私思うんだけど……」

言いかけて、遙は口をつぐんだ。

遙の視線の先で、水月は手すりに肘をつき、もたれ掛かったまま眠っていた。

「……水月ぃ、それはないんじゃないかなぁ」

遙は星を見上げてため息をついた。

一人で水月を抱えて部屋に戻るのは無理だから、誰か男子を起こして手伝ってもらうしかない。せめてとりあえず、テラスに腰を下ろさせよう。

水月の脇に手を入れ、その腕を首に回し、ゆっくりと水月の身体を座らせていく。

「……ごめんね水月」

静かな夜の空間、月に見下ろされた世界に、不意にそんな遙の独白が染み渡る。

「私も水月の笑顔に助けられてるだけの友達だったんだね」

眠り込んだせいで重たい友人の手を掴んでおろしながら、その手首を握り締めて遙は呟いた。呟きというには、独白というには、強すぎる言葉を。


「でもね、水月は独りじゃないから。そうなれるように、私頑張ってみようと……思うから」

【5】

俺は肺に溜まった空気を大きく吐き出した。指に架かったままだったカップをソーサーに下ろすと、高級そうな陶器がカチャリと小気味のよい音を立てる。

空いた紅茶のカップとケーキ皿をトレイにおいて、俺たちは軽く伸びをした。

「ま、俺も遙も、こうやって二人で一緒にいられるのは速瀬のおかげだもんなぁ」

知らず感慨深く響いてしまった俺の言葉に、遙が笑いながら答えてくる。

「その二人がこうやって水月のこと心配してるって、なんか可笑しいね」

「ん、そうか?」

「だって一ヶ月前までは、水月を通してしかお互いを知らなかったんだよ」

「まぁ……確かに、そうかもな」

気が付けば、時は既に夏の夕暮れ。

遙の部屋の大窓を開けて、軽く外の空気を夏の音と共に流し込む。

俺たちは勉強を再開する気にもなれず、部屋に届くヒグラシの声を聞きながら、ぼんやりと流れる雲を眺めていた。どちらが先ともなしに、こんな言葉を呟きながら。

「水月、大丈夫かなぁ……」

「速瀬のヤツ、巧くやってんのかな……」

【6】

ゴールした瞬間、悔しさが込み上げてきた。

いつもなら後半に勝負を据え、先頭を追い上げる自分の泳ぎ。しかし今日は、自分が追われる立場だった。そして、確実に、頭一つ分抜かれた自分を認識していた。

私はキャップを脱ぐのも忘れ、電光掲示板を見上げていた。そこに浮かんだ『MITSUKI HAYASE』の名前は……上から三番目。

失望の響きが、観客席から漏れてくる。

私はゆっくりと目を閉じ、その全てを飲み込んでから、ひとたび水に預けた身体をプールから引き抜いた。

──勝負に、負けた。

それは自分に負けたということ。みんなが見てくれる自分を作り上げる意地が、折れてしまったということ。

私はまた一つ、自分を作っていた欠片が、抜け落ちてゆくのを感じていた。

(また一つ?)

無意識の心の声に、私はまた二人の顔を連想してしまう。飾らない私を見てくれる、遙と孝之の顔を。いつの間にか抜け落ちてしまったのかもしれない、大切な私の欠片。


外を振り仰げば、いつしか雨は上がっていた。

【7】

八月十五日、その日は橘神社の夏祭り。

孝之君と待ち合わせて遊びに行くはずだったその日、私と平君は孝之君を探して走り回っていた。

「この時間にこの丘に来るなんて初めてだな……。涼宮、マジでこっちなのか?」

平君が不思議そうに聞いてくるのも無理もないと思う。でも、私は走り続ける。

もしこの場所が孝之君と平君だけの場所だったら、私もそうは思わなかったのだろう。でも、この場所を好きな人はもう一人、水月がいる。


ここ数日、明らかに悩んでいた水月。

今の私の幸せを作ってくれた、私の親友。その悩みに、今度は私が役に立ってあげたいけれど、水月の口は何故か重かった。おまけに今日のお祭りの事では、ちょっと口喧嘩まがいの電話までしてしまっていた。

そして、水月のことを心配してた、孝之君。

口では平気そうにしていても、言葉の端々に最近の水月への気遣いが現れていた。私なんかよりもずっと短い期間で水月の親友になってる孝之君に、ちょっと嫉妬もしてたのだけど。

だから今日、この約束の日に孝之君が突然いなくなるとしたら、それは水月の事に違いないと私は確信していた。そして、水月と孝之君が、何処かへ行っているとすれば──

「う、うん……今日何処かに行ってるとしたら、ここしかないと思うの」

風が、吹きぬけていく。

夏を忘れさせる一陣の涼風が、小走りで急いできた私たちから程よく熱を奪ってくれる。

やがて木立を抜けて、港までの風景が一気に開けるその場所に辿り付く。

そこには、街の灯りを背に、孝之君と水月のシルエットが浮かんでいた。

『いいから来い! んでだな……』

『きゃっ!』

『涼宮はこっち……速瀬はこっち』

『ち、ちょっと……』

パシャッ!

夜の白陵の丘に煌く、一瞬の閃光。

そこに並ぶ、若く無防備な四つの笑顔。

『きっと……いい思い出になるよ』

『そうね……』

『この写真は……マジでオレたちが一番楽しかった時代の思い出になるかもしれないんだ』

『オマエねぇ〜……これはな、オレたちのスタートなんだぜ?』

そこにいた全員が、夏の終わりを、楽しかった一つの時間の終わりを予感している。と同時に、自分たちの時間を、これから広がる無限の未来を信じて疑わない、四人の仲間たちの姿が、そこにはあった。

彼らの魔法の時間もやがて終わりを迎え、彼らは星灯りを背に、街灯りを見下ろしながら、ゆっくりとこの丘を降ってゆく。

──そのとき、何が彼女をそうさせたかは分からない。夜道を降りていく間、遙はふと水月に話し掛けた。

「ねぇ水月」

「ん、どうしたの遙? 神妙な顔しちゃって」

「私がこのみんなに会えたのって、水月のおかげなんだなぁ、って思って。私、すっごく感謝してるんだよ」

「んん〜、ま、私も遙のためだけにやったわけじゃないから。遙が孝之に興味を持たなかったら、今私たちはこうしていないんだしね。お互い様よっ」

「そ、そうかな……うん、そうだよね」

遙の口調に、そこに続く言葉をためらったような感覚があった。

そのことに気づいた水月も不意に口をつぐみ、一瞬の静けさが訪れる。一時の間、木々を凪ぐ夜風と、踏みしめる下草の音が二人の間を支配した。


「水月……水月は私のこといっぱい心配してくれたよね」

やがて何処か覚悟を決めたかのように、遙が口を開いた。

「でも私だって、水月のこと凄く心配してたんだよ?」

「えっ?」

「水月っていっつも、悩みを自分だけで解決しようとしちゃうから」

いつに無く真剣な遙の言葉に、水月は僅かにたじろぐ。しかし、水月はその動揺に軽い笑いを混ぜ込みながら、少し足を遅めながら言葉を返した。

「んー、だってさ、それで相手に迷惑掛けちゃうの、嫌だしね」

「相手は迷惑って思ってなくても?」

「あ……そ、それは……」

相手が迷惑じゃなくても。

水月がそれを認めてしまえば、それは単に相手を信頼していない、というエゴになってしまう。他人への相談をためらう理由が本当はそこにないことを、水月は自らの沈黙で答えてしまっていた。

「水月……変わっちゃうのが、怖いの?」

「…………!」

遙の思いがけない言葉に、水月は目を見開く。

もし間違ってたらごめんね、と前置きして、遙は続けた。

「でもなんとなく水月、私たちに相談するの怖がってる気がしたの。何かそれで、私たちの関係が変わっちゃう、って思ってるみたいな……」

一瞬、孝之への想いを悟られたかと思い、水月が硬直する。しかし遙の表情にそのような気配はなく、水月は彼女の意外な台詞を耳にした。

「水月、覚えてる? 昔、二人でテラスでお酒呑んだときのこと」

「あ……う、うん。正直詳しいことは記憶が飛んでるんだけどね」

水月の正直な告白に苦笑しながら、遙は言葉を続けた。

「水月言ってたよね、上辺で笑ってられる関係でいいんだ、って。そこからわざわざ踏み込んで、そんな関係を壊すこともないんだ……って」

水月は無言だった。

それは、心の底を言い当てられたからではない。酔うという行為を通してしか、遙にそのことを言えなかった自分への恥ずかしさが、水月の舌から言葉を奪っていた。

そんな水月の葛藤を優しく包むかのように。

遙は足取りを止めて、水月の方へとゆっくりと振り向いた。

「きっと、水月の言ってることも正しいんだと思うよ。みんな何処か自分を演じていて、そこでだけ喋ってる関係の方が普通なんだと思う。だけどね」

滅多に見ない、だが一度見れば忘れられない、遙の最も真剣な瞳が星灯りを反している。

「たとえそれで相手に拒絶されても、笑って話せる関係じゃなくなっちゃっても……」

その遙の瞳が、まっすぐに水月の瞳と線を結ぶ。

「それでも私は、本当の気持ちが相手に伝わる方が──幸せになれると思うの」

水月は、思わず遙から目をそらし、空に架かる月を眺め上げた。

遙のその真っ直ぐな想い。今時笑って小馬鹿にしてしまいそうな、ひたむきさ。だけど確かに遙は、上辺だけで繋がっているよりも、心を近くに寄せ合う辛い選択肢を選び──結果、今の揺るぎない幸せを手に入れている。

水月に、その真似は、できない。

その真っ直ぐな強さは、遙だけのものだから。今ここに抱いている孝之への想いは、その遙を裏切るものだから。この四人の楽しい関係を、壊してしまうものだから。

でも。

「『今』の関係が変わっちゃうのは私も怖いけど。でも水月、『昔』と変わっちゃったからって、私たちや平君に出会ったこと、後悔してる?」

水月は目を大きく見開いた。

何も言葉を発することができないまま、水月は頭を左右に振った。

「ほら、ね。新しい『今』だって楽しいと思うの」

遙の瞳に笑顔が戻る。

「だから、たとえ今は無理でも……私、水月の本当の気持ちを相談してもらえるように、頑張るからねっ」

水月の手を遙の両手が包み込む。

小さな温もりが手の先から全身へと広がり、水月の肩から、ゆっくりと力が抜けていった。誰かの手をこんなに暖かいと思ったのは、随分と久しぶりな気がしていた。

「さ、行こっ、水月!」


今日夏のこの日、白陵の丘で。


水月は思う。

いつからだっただろう。本当に心を許せるはずの親友、遙と孝之から、自分の心を隠すようになったのは。この消せない想いが、二人に対して後ろめたさを抱かせるようになったその時から、自分の心は少しずつ軋みをあげはじめていた。……だけど。


遙は思う。

いつからだっただろう。水月の強さに甘えて、水月の心の底にある孤独から、目を背けるようになってしまったのは。水月に孝之への想いを打ち明けたその時から、あの酒の夜に誓った自分の心を忘れてしまっていたのかもしれない。……だけど。


そして、二人は思う。

だけど、取り返しのつかないことなんて、ないんだ。私たち二人は、誰よりもお互いを信じている、親友だから。例え今は、お互いにぎこちなさが残っていても、私たちにはまだこれからも、いろんな想いを伝え合う時間が無限にあるのだから。


二人は孝之たちを追って、丘を降り始める。

前を行く遙の背中に向かい、水月は声をかけた。

「遙」

遙は振り返った。その儚げな印象と、強い心を合わせて映す瞳に向かって、水月は言った。

「心配かけて、ゴメンね」

遙はにっこりと笑った。

幾つもの出会いが生まれた、星降る丘の上で。

二人が初めて出会ったあの日の、屈託のない笑顔がそこにはあった。

友達を大切にできない人は、誰も大切にできないんだって

そしてね、友達を大切にされたことを喜べない人は、何も喜べないんだって……

【7】

あくる日。

遙からの電話で駅前に呼び出された水月を待っていたのは、よく冷えた氷ぜんざいに熱い煎茶。一年生の夏から見つけていた、二人の夏の定番だった。

「ねえ、水月」

遙は自分の手元の宇治金時を熱心につつきながら、いつも通りのほんわかとした声を掛けてきた。

「八月最後の週末なんだけど、みんなで一緒に海に行かない?」

「え?」

大会も過ぎ、遊びに行くイベントも終わってしまい、九月までは自主トレの日々かな……などと考えていた水月は、その提案に思わず目をぱちくりさせた。

「あ、うん、私は構わない、っていうか喜んで行くけど……。でもどうして急に?」

「ほら、来週水月誕生日でしょ? そのお祝いも兼ねてってことで、孝之君と話してたの」

熱い煎茶で軽く口を流してから、遙はあっさりと即答した。

「え、でも」

以前なら二つ返事で了承する水月だが、今回はまだ逡巡していた。先日孝之を『借りて』しまった彼女としては、当然かもしれない。

「ほら、遙たちにとっても最後の夏休みなんだしさ、お邪魔だったり……」

「えー、そんな遠慮しないでよう。孝之君だって四人で受験生最後の息抜きをしたい、って言ってたし。なんかバーベキューの設備も手配済みらしいよ?」

水月の鼻に、一瞬リアルな中近東の香りが漂ってきたのは気のせいか。

それでもまだ、今度は自分にはない『受験』というキーワードを思い出すと、それに疑問の形を取らせて口にしてみた。

「慎二君予備校とかは? 遙たちも本当は忙しいんじゃないの?」

「大丈夫っ。本当は誕生日の二十七日がいいんだろうけど、孝之君と見に行こうって言ってる絵本作家展がちょうどその日までなの」

二人のスプーンが、氷をサクリとすくう小気味良い音を立てる。

そこに生まれた一瞬の間に、ほんの少しの照れを感じながら、遙は後を続けた。

「その日しか行かれる時がなくて……だから、今予定してるのは二十九日の土曜日なんだけど。平君の予定も空いてるって」

「……オッケー、なんか全部考えてあるみたいね」

全員に完全包囲されている、と悟って水月は白旗を上げた。

「謹んでご招待をお受けしますわっ、遙サマ」

友人のそのおどけた口調に、遙は安堵した。

私と孝之君への遠慮が消えることはないだろうけど、これからも四人でやっていくことはできるのかもしれない。水月も、自分の居場所を見出し始めてるのかもしれない、と。

だから遙も珍しく、水月の調子に言葉を合わせた。

「お越しいただき光栄ですわ、水月さん」

椅子に垂れたスカートを気取って摘み、二人の少女は真面目くさって一礼する。お互いに上げた顔を見合わせ、それから店内に盛大な笑い声を響かせた。

「にしてもさ遙。あんた孝之と付き合うようになってから、やっぱ強くなったよ」

「ええっ、そ、そうかなぁ……私は変わってないと思うんだけど」

「あ〜あ、見せつけられちゃってるよ、ノロケられちゃってるよ〜」

「み、水月ぃ、からかわないでよお……」


未だ闇を知らぬ少女たちの笑い声は、大きなガラスを隔てた真夏の遠く青い空に、真っ直ぐに吸い込まれていった──

Precious Memories of an Innocent Summer...

あとがき -postscript-

お久しぶりです。君望的物書(元?)の如星です。

Web公開時原題「心は遠く雨に包まれて」、小説本収録時「儚き親友への記憶」、そして今回の再公開時に「親友の記憶は雨に濡れて」と更に改題させて頂きました。如星作品でも珍しい出世魚(違)です。

さて、2002年夏のWeb初公開後、同年冬の小説本「遙なる蒼穹と茜色した夏の物語」への収録時に行った加筆・改筆をWebに反映させず仕舞いで早2年半。ページデザインの一新に伴い、ようやくのご紹介となりました。……相変わらずの話ではありますが、今読み返すと表現のおかしい部分が多々存在して汗顔の極み。今回さらに若干の表現修正を行いました。一方本来構成自体にも手を入れたいところですが、こちらは「当時の青臭さ」を残しておくという意味でも、また構成を直しだすと例によって公開が大幅に遅れる懸念もあり(苦笑)、今回はこのままでのリリースとさせていただきました。

以下にWeb版公開当時のあとがきを付記しておきます。

お久しぶりの如星です。

本日「8月27日」中に書き上がるか本当に心配だったのですが、かろうじて期日内に書きあがりました。……奇跡、っていうか初めてデスよ?

【あゆ】「それが当たり前なんじゃ!ボケッ!」

【水月】「命の危機は去ったみたいね……よかったわねー」

ま、まぁ誤字脱字チェックを最低限しかしていないので、チマチマと直しが入るかもしれません。ご了承くださいませ(^^;;

……こほん。さて、本作品は神慮の機械では余り取り上げてこなかった、第1章を扱っています。……水月という存在を一番長く知っているはずの遙。しかし、原作中では遙の口から水月のことが語られることはほとんどありません。……その後の孝之の取り合いを見ていると、ホントに親友なのか疑わしくなるくらいですが(^^;;、その辺の欲求を踏まえ、この作品は生まれました。

実際に書いてみるとあちこちが消化不良で、おまけに遙は信じられないくらい強い存在になってしまっていました。……本当は1章ではこんな遙の強さは見られないんですが、その行動の裏には、こういう芯がしっかりとあったということで。如星の考えている「弱い水月と強い遙」を描けていたらいいなぁ、と思って書きました。どちらも、それが彼女たちの魅力ですからね。

なお本作品を執筆するにあたり、「水月の弱い面」の煮詰めなおしに多大なアドバイスをいただいた、あきこさんの奥方ちゃある様に感謝の意を捧げます。

この作品の「フィクション」部分は一つ、あの写真を取った丘の「上」で、彼ら解散してるんですね。水月と遙が並んで坂を下っている、という一点が「原作に反する」フィクションとなっております。

……そして、最後に「さらにフィクションの」エピローグを付記しました。あと少しだけ、お付き合いいただければ幸いです。

2002.08.27.あとがき

この頃はまだ「遙の強さ」を自覚せずに書いていた模様。その後、如星の中ではすっかり「鋼鉄の芯を持つパーフェクト・ハルカ」が育っていくわけですが、本作はその萌芽とも言える存在かもしれません。青臭く強引な展開には我ながら苦笑してしまいますが、水月と遙、という絡みを書いた作品自体あまり多くない中、一応の成功を収めているのではと自賛もしていたりします:)

なお後書きには入っていなかったので追記。作品中の「独りっきりで孤独を感じる方がマシ」という台詞は、Cowboy Bebopのフェイ・ヴァレンタインからです。ちなみにフェイの蓮っ葉なイメージは、よく強気モードの水月の口調を考えるときの参考にさせていただいてました。

2005年現在君望物書きは停止していますが、いつかふと思い出したかのように一本書いてみたいな、とは常に思っています。如星を強烈に突き動かした君望、そうそう心の中から消えるものではありませんからね。

さて、それでは元のあとがき通り、以下少しばかりのエピローグをお楽しみください。なお以下の部分は当サイト「ifシリーズ」の「遙なる海の彼方」に基づいております。あらかじめご了承ください。

still more to go...

【an epilogue: another】

雨が、降っていた。

「久しぶり、遙。遅くなって、ゴメンね」

青々と広がる一面の芝生は綺麗に刈り込まれ、霧のようにゆっくりと降り注ぐ雨の音を柔らかく受け止めている。辺りに他に人影はなく、風が揺らす木々も遠い。持ってきた白い花束は傘から出した瞬間に、無数の雫を花びらにまとい始めていた。

「あれから色々ドタバタしちゃってさ。私も三度目の引越しがあったし、孝之も慎二君も新しい職場で苦労してたし」

その台詞の後に、かすかに苦い笑みを浮かべて水月は付け加えた。

「……んー、ま、勇気がなかっただけかもしれないけどね。遙が言ったようにさ、私は基本的に臆病だから」


──遙が逝ってから、もうすぐ三年になる。

遙を葬ったあの日以来、自分ひとりでこの場所に来ることはまったく無かった。遙と差し向かいで話すのが、怖かったのかもしれない。

だがしばらく来られなくなる前に、自分の意志で一度来ておかなければ、もう二度とこの場所を訪れる勇気を失ってしまうかもしれない。水月はそう考えて、この墓所に足を踏み入れた。

なぜなら。

「遙が言ったくせに」

水月は呟く。

その声は時の重みを積んだ女性のものではなく、理性を無視した幼い十七歳の高校生の声だった。

「私は変わるのが怖いんだって知ってたくせに。誰かとの関係が壊れるのが怖いんだって、面と向かって言ったくせに。そんなことを言ってくれる人、遙のほかに誰もいなかったのに」

彼女は微かに肩を震わせ、顔を背けた。

不当な非難だと分かっていても、そう思わざるを得なかった。

(その遙が先に逝っちゃうなんて、ずるいよ)

でもそれは、決して音にはならない言葉。

水月は軽く目を伏せると、少し伸び始めた髪をかき上げた。そして気を取り直したように目を開き、雨に打たれている親友に再び話し掛けた。

「遙がいなくなってわかったんだ。私は、やっぱり誰かと強く関わるのが、今ある関係を壊すのが怖い。大切な人を、大切と知ってから失うことが、一番怖いんだ」

かつて、遙の死に涙を流しながら、水月は分かってしまった。自分は、あの丘の上に集った十七歳の夏から、ちっとも進歩してなかったのだと。

だが、それでも。

水月は静かに口を開く。

「……でも、新しい関係を受け入れることだけは、怖がらないようにするね」

それは遙が教えてくれた、大切なことだから。

二年間を共に過ごした孝之が、その別れの日に真剣に伝えてくれたことだから。

「こないだからね、またこっちの街に戻って来てるんだ」

再び開かれた口からこぼれる言葉は、いつもの気さくな水月の口調に戻っていた。

「慎二君の勤めてる会計事務所でね、人手が足りてないんだって。この不況だし、ありがたく話に乗せてもらうことにしたんだ」

水月はくすくすと笑った。

「慎二君と仕事してるのは面白いよ。あの冷静沈着な慎二君が、上司にやり込められてるトコとか見られるしね。でも二人してしばらくアメリカの方に出なきゃいけなくなっちゃって。だから、またしばらくは来られないと思う」

そして、大切なことを付け加える。

「孝之も、まぁ元気にやってるよ。一度は沈みかけたけど、今じゃ吹っ切れたみたいに大空寺宇宙開発テンプルスペースに転職して仕事してる。……あの頃からじゃ信じられないよね、孝之が宇宙関係の仕事してて、私が慎二君の会計事務所のアシスタント、そして──

水月はそこで言葉を区切り、雨の降り注ぐ雲の、さらに向こうの世界を振り仰ぐ。

(そして、もう遙がいないなんて、ね)

水月は墓の前から一歩後ずさった。

傘からこぼれた雫が、墓に供えた花束に落ちて散った。

水月は辺りを見回した。何処かあの遠き日の丘の上にも似た、遙の墓所。

あの場所を懐かしいとは思うけど、もう戻りたいとは思わない。


水月は雨に濡れた親友の墓に視線を戻した。

「さよなら、遙」

遙が逝ってしまった今だからこそ。本当に、この言葉を紡ぐことができる。




「私、遙にあえて、本当によかった」




──THE FRIENDSHIP ECHOES IN ETERNITY.

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