日々思いて溢れるを残すは此れ雑文也。

MACHINA EX DEO

如星的日々の雑文

今日の雑文:雑文十番勝負

お題「雨と傘」


「あの日、あの時、あの傘を」
静かな雨が降っていた。

青々と広がる一面の芝生は綺麗に刈り込まれ、霧のように降り注ぐ雨の音を柔らかく受け止めている。辺りに他に人影はなく、風が揺らす木々も遠い。

雨は、あくまで静かだった。

そこに佇む彼女。傘に守られることもなく、静かに雨に打たれている。

あの日、彼女を傘に入れていたら、僕たちはこんな場所にいなかったかもしれない。
せめて傘を彼女に貸していれば、また違った未来があったのかもしれない。


そんな思いを胸に、僕の傘もまた閉じられている。自らの身体を、雨に打たせるために。


二人の出会いも雨の日だった。
傘を忘れた彼女に自分の傘を押し付けて、僕自身は濡れながら走って帰ったのがきっかけだったっけ。……僕は自然にやったつもりだったけど、後日彼女に「あんな古典的手法を堂々と使う人なんて初めて見た」と言われて随分凹んだものだった。

初めてのデートで降られた雨。
自分の運のなさを呪ったけれど、一つの傘の下で伝えた僕の言葉に、彼女は最初のキスを要求した。雨の中、傘の下という隔離された空間での彼女の唇は、それまでのどんなキスよりも温かかったことを覚えている。

それからというもの、雨の度に僕たちは一つの傘を共有した。
僅かに外側の肩を濡らしながら、一本の柄を二つの手で握り締め。肩を寄せ合い、たとえ足元が冷たくても幸せだった。一つ傘の下の小さな世界。雨男と雨女同士、傍から見ればお似合いの二人だったのかもしれないな。


「なぁ、あの日傘に入れなかったこと……今でも怒ってる?」


彼女の返事はない。ただ静かに僕と向き合っている。

「ん、分かってる。おまえはそんなことを怒るヤツじゃないよなぁ」


……僕自身、その質問の答えはわかっていた。彼女はほんの少しの寂しさと共に、いつもの笑顔で僕を許したんだろう。彼氏彼女とからかわれるのが嫌で、クラスメイトの手前、つい彼女を拒んでしまった、あの日のことを。


静かに、静かに、雨が降る。

「……今日雨になるって聞いてさ、会いに来ようと思ったんだ、俺」


僕はゆっくりと傘を差し上げた。

「二人で傘に入るなんて、多分もうないだろうから。
だからこの話をする間ぐらい、またいつもの相合い傘、させてくれよな」


霧雨に硬く冷えたお互いの身体。もうこんな状態から傘を差したって効果はない。
だけど、意味なら十分にあるんだ。

「んでな、今日はおまえに傘、渡して帰るよ。嫌だって言っても聞かない。
今日はこの一本の傘を、おまえが差してて欲しいんだ」


僅かに彼女の方から目を逸らし、頭上の傘に目をやる。
たとえそれが空しい行為と分かっていても、この一つ傘の下に、もう一度彼女と二人で居たかったんだ。

「だってこの傘の下は、俺たちの世界だから。それを……忘れないで欲しいから」


そして、彼女に傘を預ける。
今一度、彼女と並んで街を歩く。雨と傘に守られた小さな世界を共有する。ささやかな、だけど何よりも大きな幸せのカタチ。

「でもそんなことが、もう叶わない。そんなことが、こんなに大切だったなんて──」


今の僕は、傘の外。世界の共有も、今や終わりぬ。

降りしきる雨、青い芝。一瞬ここが日本とは思えぬ、カトリックな雰囲気の丘の上。

雨の中、傘を持たずに走る彼女のイメージを振り払う。
傘さえあれば、焦って走り出すことも、足を滑らせ転ぶことも、事故に遭うこともなかったはずなのに……!


「もう来ることはないと思う。来る資格もないと思う。
だからその傘……返さなくて、いいぜ」



彼女の墓標に背中を向け。
静かに降る雨の中、僕は傘のない世界を、歩んでゆく。

fin.
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