日々の雑文

MACHINA EX DEO

如星的日々の雑文

今日の雑文:ある運河に映る灯りの話

そのバーの構えは、何の変哲もない木の扉だった。

無数の人で夜も賑わう広場から少し離れた裏手の小道。何の変哲もない石造りの街角に、何処にでもある石造りの小さな建物。高く抜かれた四角い窓からは、中の灯りだけしか窺えない。

ただ扉にはまる、店の名前を刻んだ磨りガラス。
そのガラスだけが、このバーの存在を示していた。

思い切って戸を押す手に力を込める。……が、扉を開いただけでは、中が覗けない作り。
さらに一歩を進めると、途端に眩い喧騒が身体を包む。

絶え間なく行き交う給仕係カメリエーレ。矢継早に繰り出されるオーダーを見事に捌くバーテンダー。明るい木目の壁に誇らしげに貼られた街の地図。グラスを片手に笑い合う様々な髪の色の人々の上には、柔らかな光が満ちている。

──賑やかなのに寛げる不思議な空気。
店に一歩足を踏み入れただけで、その空気が一瞬にして鼻腔から脳髄へと到達してしまう。


午後十時過ぎ、か。
僕は間違いの無いように素早く再び時計に目を巡らせる。……明朝は早い。今日この場所で、ゆっくりとテーブルで寛いでいく余裕は残念ながらないだろう。それを理解した上でこの店の扉を押したはずなのに、早くも僕は時間の無さを呪い始めていた。

ふう。
今更ぼやいても始まらない。僕らは勧められるままに、わずか六席しかない小さなカウンターに身を収め、カギ鼻の大きな老バーテンダーに注文を告げた。


オーダーは、まさに絶え間無い。
特に名物ベリーニは常にカウンターの中で作られ続けている具合だ。……その中の1つのグラスが僕の前に。連れの前には、一見無造作にも見える手付きで素早く作られたオールドファッションドが並んだ。

口当たりの良い、至福の味わいのベリーニ。オールドファッションドも絶妙の配分。それらはまるで自分たちの旅の疲れを見抜いたかのような優しさで胃の中を満たしてくれる。僕は細やかな味を語れるような舌は持ち合わせてないけれど、そこに込められた心なら分かる。……そして、旨いものは旨いのだ。

と、のんびりとカウンターの中を眺めてみる。
若いバーテンダーの手元。大きな金属製のミキシンググラスで次々に何杯分かのベリーニが同時にステアされ、グラスへと注ぎ分けられていく。紛い物のようなピーチジュースではなく桃のピューレで作るため、プロセッコと綺麗には混ざらない。よくステアし、グラスに注ぐと泡が立つ。立ち過ぎてしまった泡をすくい出し、注ぎ足し、客の下へと運ばれていく。

……気が付けば空になった手元のグラス。
余りに旨かったベリーニをもう一杯。拙いイタリア語には自信が無くて、英語で「One other belini」と注文する。すると出払った若いバーテンダーに代わり、最初にオーダーを受けてくれたカギ鼻の紳士がステアラを構えた。

ミキシングにピューレとプロセッコを注ぎ、手早くステア。
高い位置から勢いよくグラスへとベリーニを注ぎ──彼の手首が軽く翻ると、驚くことに泡はグラスの3mm上でピタリと静止した。

絶妙。

思わず軽く口笛を吹いた僕に、老紳士はお茶目な笑顔でウィンクをして見せる。
その刹那──この店を訪れる、世の中のあらゆる人々と同じように──笑顔と、空気と、ベリーニの香りが脊髄に叩き込まれ、そして僕もこのバーの虜になっていたのだった。


ふらりと立ち寄って、引っ掛けて、立ち去るまで30分足らず。
再訪を堅く心に誓い、水音を立てる石畳へと歩みを進める。チプリアーニの説くもてなしの心ホスピタリティが、ほんの少しだけ心に染み渡る夜だった。


ハリーズ・バー、ヴェネツィア。
その灯りは今日も絶えることなく、大運河の水面を照らしているのだろう。

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