「はるかっ?」
上がり際の玉野さんのフォローのおかげで、いつもより30分ばかり遅刻気味。とはいえ、あの今にも切腹しそうな玉野さんの表情を見ていると放っておくわけにもいかない。それに、彼女が笑顔に戻って奔走し出す瞬間が、実は結構好きだったりもする。
急いで店を出たい時でも、そんなことを考えられるのは……やっぱ余裕って言うんだろうか。そこで、待ってくれてる人がいるという安心感。それでも病院に入ると自然と足が速まるし、ノックの返事を待つのももどかしい。
「孝之くん!」
遙の声に重ねるようにドアを開ける。目が合った途端に、お互い恥ずかしいぐらいに顔が緩んでいく。
「ごめんな遙……店出るのに手間取っちゃって。寂しくなかったか?」
「ちょっとちょっと……鳴海さんも思いっきり私の存在を無視しないでくださいよ……って、あ、あっ」
苦笑する茜ちゃんを横目に見ながら流れるように遙の枕元に近づく。半身を起こしている遙の、ひざの上に置かれた手にそっと片手を重ね、もう片手で耳の後ろの髪を漉きながら身をかがめ……キスをする。ドアを開けてから僅か15秒。そっと触れる程度のキスだけど、それでも遙は真っ赤になっている。
「あああありがとっ……で、でも茜も来てくれてたし、うん、寂しくはなかったよ……」
「……そんなに慌ててフォロー入れなくても結構ですよお姉サマ」
ジト目で腕を組む、もういい加減慣れたと言わんばかりの茜ちゃんの台詞。むしろ慣れてないのは遙の方か……
「茜ちゃんこんにちは。あ、お花替えてくれてありがとね。遅れてゴメン。今日は俺が選ぶはずだったのに」
「いーえ、いつものコトですから。……あーあ、今度から鳴海さんと来る時間ずらそうかな……最初はお邪魔かと思ったけど、なーんか邪魔ですらないみたいだし。姉さんもその方がゆっくりできていいよね?」
「ああああかねっ!」
いたずらっぽい顔で笑う茜ちゃん。ますます赤くなる遙。……このシチュエーション、なんか久しぶりに見たなあ。
ま、遙の反応も無理もないよな。いくら3年の時間を認識したとはいえ、中身は「キスの回数も数えられる」あの遙のまま。今時の高校生でも見られないぐらい初心な遙なんだから。
一方こっちは一応恋人との接し方にもなれて、キスの回数も重ねてきたわけで……。ふと、そこまで考えると水月のことを思い出し、少し悲しくなる。
でも、俺はそんな遙に合わせることなく、努めて今の自分の愛し方を遙に向けることにしている。そのうち遙だって慣れるだろうし、それに俺が今愛しているのは3年前の遙じゃない。今、そこにいる遙なんだ。今の俺がしなきゃいけないのは、昔の関係を取り戻すことじゃなくて、今の遙を、全力で愛することなんだから……
「鳴海さ〜ん? 生きてますか〜?」
「?」
「……姉さんを見つめてたいなら2人きりの時にしていただけませんか?」
う、やばい。本気で呆れられはじめてる。
茜ちゃんには水月と別れた事を明確に伝えたわけじゃないけど、オレと遙を見てて感じるものがあったのか……彼女の笑顔も変わった。そもそも水月の本当の気持ちをオレに教えるきっかけを作ったのは、この他ならぬ茜ちゃんなんだから感謝しなきゃな。……とはいえ、はは、このバカップルぶりにはそろそろうんざりしてきてる頃かもしれないけど……
茜ちゃんの敬語だけは相変わらずそのままだけど、慎二経由の情報によれば、白陵での茜ちゃんは決してそんな硬い子じゃないそうだ。……早く、その本当の声を聞かせて欲しいもんだ。
……この3年間、彼女にも色んな傷を負わせてしまった。そんな茜ちゃんの笑顔にかけて、言葉なんかではなく態度で示すのはオレの決意でもある。だから……今はこれでいいんだ。
そう、あれから1週間ばかり。
オレはこれまでのことも、何もかも棚に上げて、遙の彼氏をやってる。
遙と時を重ねている。
遙のリハビリは順調で、最近では少しずつ歩くこともできるようになってきた。とはいえ、まだ病室の外に出るには車椅子だけど。
積み重ねられる日常へ向けてひた走る、そんな遙を見るたびに、「これからのこと」を考えてしまう。遙がオレの人生に戻ってくることなど考えもせず、そもそも行き当たりばったりで積み重ねてきた日常。……遙が目覚め、久しぶりに病院に来た日に、自分の過ごしてきた2年間に後ろめたさすら感じたことを思い出してしまう。
(──鳴海君も、よく考えてみてはどうでしょうか)
……健さんの言葉が耳に蘇る。
本当に、まるで全てを知っているかのような言葉、だよなぁ……
休憩室でたまたま店長に会った。
ちょうど大空寺もフロアに出てるし、今なら余計な邪魔も入らないだろうと思って、オレは話を切り出した。
「親戚」がようやく安定して、もう退院を待つ身になったこと。
今までシフトに融通を利かせてもらったことへのお礼。
「……精神的に不安定だったおかげで、店長や他のみんなにもご迷惑をおかけしました。特に店長にはこの1ヶ月、本当に色々配慮していただいて……。本当に、ありがとうございました」
「そうですか……。まずは、おめでとうございます。こういうことは家族の方に一番負担が掛かりますから……それが報われる形で終わるのは本当に良いことです」
そう、店長はそれが報われなかったんだ……
健さんが変態になりかけたあの日、店長が「話せる」理由がわかったんだもんな。もし生きていたら、どんな子になってたんだろう? 店長みたいにやっぱちょっと変わった女の子になっていたのか……そんな想像すら、痛みを感じるものになってしまっていたんだ。
それに比べれば俺は、どうにもならないことを押し付けられる立場ではなくて済んだ。誰かをどうにもならないようにして、幸せすら手に入れられたんだ。
「最近の鳴海君は、ここ数週間はもちろん、初めてお会いしたときに比べても良い顔で仕事をされていますね。どこかスッキリしたような、自分の居場所を見つけたような、そんな感じがします」
少し気恥ずかしくなってうつむく。ちょっとした間。うーん、店長ってやっぱよく見てるよなぁ。
あ、そうだ。それで今後のシフトの話もしないと……
そう言い始めようと思ったとき、店長が先に口を開いた。
「……しかし、その場所ははたしてここなのでしょうか」
「え?」
「いえ、鳴海君がまたシフトに多く戻っていただけると確かに助かります。私としても、経験のある方には長く勤めていただきたいと思いますから。……しかし、それが鳴海君のご希望なのですか?」
(はい、この1ヶ月稼げなかった分を取り戻さないといけませんし)
……その台詞が、言えない。答え、られない。
「……あれだけ憔悴するほど大切な『親戚』の方が退院される。ようやく精神的余裕も、時間的余裕もできるでしょう。やりたいことがやれる、よい機会ですしねえ……若い方というのは羨ましいですね」
うーん、『親戚』じゃないのバレてるのかな。まぁ、我ながらあれだけ切羽詰った雰囲気出してれば、と思い返して苦笑する。
しかし……若い方、か。
「現実は止まってくれません。歩いていくためには体を動かさなければならない。……それでも、理由があれば頑張れますから」
歩いていく理由……
「年を取ってから、取り返しがつかなくなってから、初めて大切なことに気づいてしまう」
……取り返す。
この1ヶ月、馴染みの深かった言葉だ。遙の時間を取り戻すこと……多くの人を傷つけて、それでも、やっとこの1ヶ月の辛さが報われ始めてきた。
でも。
オレの時間は、どうなんだろう……。オレの3年間は無駄なだけではなかった……はずだ。……でも未だに、胸を張って人には、言えない……。水月との時間には、どうしてもその暗さがあった。それが、オレがこの1週間の道を歩んでいる理由の1つでもあるんだから。
オレの時間……取り戻すなんて、考えたこともなかった。
水月とオレの時間のため……そして今は遙とオレの時間のため……
何か……何かがわかりそうで、でも手が届かなくて、奇妙なもどかしさが頭の中に霧をかけていく。
「後悔だけの残るような道を歩んではいけません。……まあ、年を取ったなりに、こんな風に説教臭く話すこともできるのですから、案外人にはできることがあるものですね」
できること。
遙の隣を歩くと決めたオレが、遙のためにできることはなんだろう……
そう思ってた。でも……何かが、ひっかかる。
「人のためだけに頑張れればそれも素晴らしいことですけど。人間、そこまで綺麗にはできていないようですよ」
そう言って健さんは、あのいつも見せる不思議な笑みを浮かべた。
「その上で……。例えばすかいてんぷるは働く若者を常に応援しています」
これ、バイト募集のペーパーに書いてあったまんまの台詞だよな。
「先ほどディナーのスタッフから電話がありまして……ついでに今晩ディナーに入っていただけるとより一層応援してしまうのですが」
突然、いつもの健さんの調子に戻ってる。ふいに毒気を抜かれて頭が回らず、思わず返事をしてしまう。
「ありがとうございます。本当は大決定していたのですが……」
決定してたんかい。
「私もディナーの大空寺さんも助かります。……鳴海さんもお休みされてた頃の時給を取り戻すこともできるでしょう」
……え……?
意味深な表情を浮かべる店長。別に恩着せがましく言ってるわけじゃ……ない。
「ともあれ急な話で申し訳ありません。ちなみに今回は大空寺さんの意見を採用して、彼らのクビも真剣に考えなければいけませんね」
「ぶっ」
まぁ3度目だし、あいつらも自業自得か。それにしても健さんも平気な顔をして凄い台詞言うよな……
「……鳴海君も、よく考えてみてはどうでしょうか」
何をかは、あえて聞かなかった。