「やっぱここは綺麗だなぁ……それに、懐かしいし」
久しぶりに訪れた白陵の桜並木。
地球温暖化と言いながらも、今年の春はちょっと遅れてやってきた。だけど日当たりの良いこの白陵の丘では、例年通りのこの時期に、朝の光を受ける一面のほのかな桜色が満開で私を迎えてくれる。
あの頃、数え切れない程登った、この坂道。
たくさんの思い出が詰まっている、この並木。
中でもこの季節は、一番、色褪せずに残っている。
私の人生の中で、一番、色鮮やかだった時間だから。本当に真っ白に見える正門への道。その中に学年ごとに違う制服の3つの色が混ざりあい、それが坂道の頂上を目指して流れてた。
(私、好きなひとがいるの)
(遙に好きなひとかぁ〜……そうかそうかぁ〜)
(み、水月ぃ〜)
あの時間の全てが、この桜吹雪の中から始まったんだ。
遠き日の夕暮れの光を茜色に映す、白い桜の花びらの下で。
(それで、それで? 相手はどこのどちらさん?)
(う、うん……やっぱ、言えない)
(気になるなぁ〜。夜寝られなくなりそうだなぁ〜)
親友の恋の相談を受けた、あの日の桜吹雪。
遙の口から孝之の名前を聞いた、あの時の少し冷たい風。
かつて、白く輝く桜並木の下を毎朝流れてた白の制服。3つの色。
今その下を通るライトグリーンの制服は、私に言わせれば桜とは喧嘩しちゃってるね。
そう。
今は登校時間にここに来ようとも、あの白の競演を見ることは、もはやない。
白陵大付属柊学園は、もうこの坂の上にはないのだから。
少子化と不況で始まった企業合併の波は、私立大学にも及んでいた。
白陵大は青洋大に吸収合併され、もうその名前は残っていない。この坂の上に残るのも、青洋大情報学部キャンパスと、青洋大付属白陵高校だけ。その敷地も半分以上は売却されて、宅地になってしまったと聞いている。
───娘の新しい一歩には相応しくない、感傷かもしれない。
でも何と言ってもこの街は私の故郷。
この辺りで一番レベルが高いこの高校への合格は、娘の母親として素直に喜んだ。
……唯一「白陵」の名を残す青洋大付属白陵高校。楽しい思い出の詰まったこの校舎で、さくらにも幸せな時間をいっぱい作って欲しい。例えそこに母親の感傷が混じってるとしても、それが一番素直な私の感情だから、さ。
白陵の坂を登り切る。
ははっ、さすがに体力は……落ちてるかな。これでも若い頃につけた体力のありがたさを、今更になって味わってはいるんだけど。
校門に未だ残る白陵の2文字。
そこに保護者として足を踏み入れば、目の前に広がるのは懐かしい校庭。
でも、ここからあの室内プールに向かうことは、できない。
室内プールの敷地と校庭の間には、無粋なフェンスが、新設されていたから。
話には聞いていたけど、自分の目で見ると……改めて、心にずきりと痛みが走る。
あの立派な設備も、今や新興住宅街向けのスポーツクラブ、なんだよね。
……オリンピック候補生を2人も輩出しながら、その2人共が水泳を辞めてしまったのだから……大学の施設としては、良い噂が立つはずもない。プール建設にかけた「投資」がまったく回収できなくなったことは、白陵の財政悪化の原因の1つにまで数えられてるんだから。
今はもうそこにはない、白陵大付属柊学園。
消えたプール。見慣れない制服。生徒数の減少で取り壊された旧校舎。
桜の白い花びらだけが、昔と変わらずグラウンドにまで舞い込んでくる。
散ってしまえばただのゴミ、なんてぼやきながら、下駄箱に紛れ込んだ桜を掃除していたなぁ……。そんな記憶が蘇り、ようやく微かに
───苦笑ではあるけれど
───笑みを浮かべることができた。
宙を舞う淡い色彩が、桜の記憶と友人たちの思い出を繋いでゆく。
せめてこの隣に、遙がいてくれたら
───そんな想いが、不意に私の心に溢れてくる。あれから十七年、未だ眠りつづける親友が、せめて一緒にいてくれたら。2人で子供を連れて、同じ学校に通わせられる偶然を笑いあえたら……!
「遙……孝之……私、帰ってきたよ……」
……鳴らない、電話。
十七年前、一度柊町を離れた時、茜に番号を教えて以来変わっていない携帯の番号。この電話が今も鳴らないということは、遙は今もあのベッドの上にいる……そういう、ことなんだ。
……っはあっ!
私はそんな記憶を頭の芯から振り払う。
遙と桜の思い出で始まった、あの時間。孝之と過ごした、2年間。
その全てが、今も消えない悲しみに覆い尽くされてしまうのが、嫌だから。
それに希望の種だってなかったわけじゃない。
孝之と遙の想いの結晶が、今もこの世界に在るということ。孝之を支える、茜という存在。私の色鮮やかな記憶に残る人たちが、しっかりと時を刻んでいるという事実。
それこそが、本当に大切な、救いだから。
───今日、さくらは白陵高校に入学する。
でも、あの場所は教えてない。売却と宅地化の波に抗して今なお残る、あの丘の秘密の場所は、教えないんだ。
それは、娘自身の手で見つけて欲しいから。
願わくば、さくらも、誰か幸せな人を、あの場所で見つけられますように。
……あははっ、女の子の母親にしちゃ、私って珍しいのかもね。
「……お母さん?」
「あ、ゴメンねっ! 久しぶりだから懐かしくってさー」
入学式に娘共々遅刻なんて、ちょっと洒落にならないよね。
講堂へと駆け足を始める感覚が、記憶の奥底から全身に伝わってきた。
さぁ、行くよ、さくら。
キミの思い出を作る、新しい一歩を踏み出そうっ!
懐かしみを込めて走り出した、その瞬間。
……耳から胸に突き抜ける、遠い日々の息せき切った声。
「ちっくしょう、なんで時計が止まってんだよっ……!」
え……!?
振り返った私の横を、急ぎ駆け抜けていく、白陵高の制服。
吹き抜ける風。舞い翔ぶ桜の花びら。
ワイシャツとズボンの制服は、柊学園時代のものと大して変わってない。
そして……そこには……
……孝之っ!?
鼻先を掠めた花びらに目を取られたその刹那。
彼は私を見て怪訝そうな顔を一瞬浮かべた後、呼び止める間もなく校舎へと姿を消した。
……まさかね。
あーもー、感傷ばっかで嫌になっちゃうな〜。
その時、私はただの錯覚だと思って講堂へと足を速めてた。
だから、その時は、まったく何も予想していなかった。
鳴海孝春、17歳。速瀬さくら、15歳。
この瞬間が、2人の最初の出会い。
それがやがて来る再会、人生2度目の大波乱、そして
───
私たちのささやかな記憶の再会を告げる、風だったなんて、ね。
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