ある友の記憶の言葉
維如星
『過去に自分の理想郷を夢みることをやめ、現代にその善きものを実現させましょう。 私にとって、この時代こそが最上の時代なのです。 無数の矛盾が在るこの時代こそ、それに生き、それを犠牲として捧げるために、私に与えられた時代なのですから』
──ハルカ・フランチェスカ・スズミヤ司教
2068年、アジア・リム中央医療施設の建設合意発表に際して
アジア・リム外周区の閑静な一角にあるカフェ「アリアケの月」。
この初期開発エリアには珍しい透明度の高い展望フロアが売りの一つだ。 この時間なら「夜空に残る月」を意味する店名の通り、遙か足元には富士、遙か頭上にはアリスタルコスを収め、
塵警報も
太陽風警報もない晴れた日には、それぞれの銀嶺が太陽の光に煌く様を眺めることが出来る。
その足元をさらに覗き込めば、アジア・リム中央医療施設
───聖ハルカ記念病院と言う方が馴染み深い
───の壁面を眺めることができたが、これは潜在的高所恐怖症の方々にはお勧めしない。
と、店の扉がチリンと音を立てる。
低重力生活が長いとはいえ、もう百歳は下らないはずの彼は、かっちりとしたスーツに身を包み、淀みない足取りで床を蹴って私の座るテーブルに身体を進めてきた。 私は弾かれたように思わず強く立ち上がり
───地球住人はすぐ低重力を忘れてこれをやるのだが
───椅子のパイプに足首を絡め、浮き上がりそうになった身体を慌てて引き戻す。
その全てを柔らかな微笑で見つめる老紳士に、私は照れながら右手を差し出した。
「初めまして。 ご連絡させていただいたウェイと申します」
「軌道の辺境までわざわざご苦労でしたな。 私はもうCレベル以上の重力圏には戻れませんのでね」
老紳士と軽く握手を交わすと、私は彼に敬意を表して、貴重な地上産のグリーン・ティーを2つ注文した。 ヤブキタというそのお茶は、今眼下に見える富士の周辺、すなわち彼の故国が産地だからだ。
私のその配慮に、あるいは前調査に感心したのか、彼は「ほぅ」と小さく声を漏らすと、メニューも見ずにウェイターに声を掛けた。
「芋きんつばを。 いつもの紫で頼む」
そして怪訝そうな顔の私を見てニヤリと笑ってみせた。
「緑茶には良く合う代物だよ。 それにこいつは彼女の好物でね。 材料は軌道水耕でも簡単に手に入るバタータだが……それでも和菓子なんぞがこれだけ広まったのは、彼女が行く先々で作らせたからだろうね」
私は無意識に展望窓の下方を見下ろした。 記念病院の壁面から伸びる細い連絡索と、その先の静止軌道に浮かぶ聖ハルカの聖墓が嫌でも目に入ってくる。
彼は私がようやく探し当てた、
聖ハルカの俗人時代を知る数少ない人々の一人だった。
「史上初の女性高位聖職者」「
宇宙の守り手」こと聖ハルカについては、生前からその業績について数多くの本が書かれ、今でも何処の図書館でも教会でも彼女について読むことができる。 だがそれらの本には、一貫して欠落した部分があるのだ。
彼女が事故により昏睡し、以来二十年間ほぼ老いることなく「奇跡の眠り」についていたことを知らぬ者はいない。 だが、その事故以前の彼女の人生や、記録の片隅にある「中途の目覚め」の二週間について語れる者は、当時からほとんどいなかった。 事故に関係したとされる人物のほとんどが、堅く口を閉ざしていたからだ。
おまけに彼女は覚醒以前の話を他人に語ることはなかった。 彼女がシスターとして「国境なき医師団」に身を投じたのも、当初は過去の記憶を捨て去るためだったというくらいだ。 以来その激動かつ多忙な人生の中で、彼女は話をこぼしそうな親しい友人というものを持つこともなかった。
しかし、彼女の没後二十年を記念した全集に、そんな空白を認めるわけにはいかなかった。
かくして私は超過勤務も甚だしく、編集長から借り受けた高位プレスパスでの果てしないネットダイブの末、ようやく当時の「聖ハルカ記念病院」関係者名簿からこの老人の名前を発見し、さらに苦労して現在のアドレスを捜し当てた、というわけだ。
「さて……こんな老人と重力障害者の住むエリアに、若い人がいったい何の御用かな?」
「……そのですね、ハルカ・スズミヤ嬢の話を、お聞きしたいのです」
遠くのデブリが一瞬太陽光を強く反射し、遮光フィルタを通してテーブルを眩しく照らす。
彼の浮かべた意外そうな表情が、光に目を細めただけなのか、それとも私があえて使った耳慣れない呼称のせいなのかは分からない。 だが一刻の間の後に彼が浮かべたのは、紛れもない満足げな笑みの表情だった。
「……いいでしょう」
彼は大きく息を吐くと、ゆっくりと目を閉じた。
運ばれてきたグリーン・ティーの香りが緩やかに鼻腔をくすぐる。
「私が知っているのはお嬢さんだった頃の彼女だけだ。 絵本作家を目指していた、あの頃のね。 ……正直、あなた方が聖人さんに求めるような話はないだろうが、それでもいいなら……話して進ぜよう」
再び開かれた彼の目は、遙か下方、富士のある日本列島にゆるやかに注がれていた。
「スズミヤはね、普通の女の子だったんだよ。 本当にね」
「そう、彼女は普通の女の子だったよ。 随分と可愛いほうではあったがね。 おまけに儚げで、どこか守ってやりたくなるような、そんな大人しい女の子だった」
「儚くて、大人しそう……ですか」
私の言葉に、彼はにやりと笑った。
「言っただろう、聖人さんに求めるような話はないってね。 良くも悪くも、彼女は普通の子だったさ。 ただ……」
「ただ?」
「……後で知ったんだがね、随分と芯の強い子だったよ」
「芯が、ですか」
儚くて芯が強い? そんな老人の謎掛けのような言葉に、私は随分と奇妙な表情を浮かべていたらしい。 彼は苦笑して言葉を続けた。
「彼女はね、当時ずっと片思いだった人がいたんだよ。 ──なんだ、聖人が恋をしちゃいかんとでも言うのかね? ま、良くある若かりし頃の恋でね、平坦な道ではなかったわけだ。 想いを伝えるまでも苦労だったし、付き合い始めてからもすれ違いがあったらしい。 ……うん、若いっていいものだね」
彼は芋きんつばを一口放り込むと、悪戯っぽそうにそう笑って見せた。
「……だがね、そんなときでも彼女は折れなかったよ。 儚げな外観とは裏腹に、たとえ辛い結果が見えていても、それでも想いを伝えることを選んだ。 本当の気持ちから、目を逸らせる事はしなかったのさ。 『どんな気持ちでも、どんな言葉でも、自分にとっては大切だ』と言ってね。 私が思うに」
口の中の甘さを渋みの利いた茶で流しながら、老紳士はまっすぐに私の目を見据えた。
「彼女はやがて聖職についてからも、死ぬまで思い続けたのではないかな。 そこにある真実から決して目を背けない。 『本当の気持ちが、一番大切だ』、と」
私はその言葉の意味を考えてみた。
表面的に考えても、それは確かに聖ハルカの人生そのものだ。 先進諸国の全てが目を背けていた、宇宙時代に取り残された人々のことを考え続けたのが、彼女の聖旅だったのだから。 だが……果たしてそれだけだったのだろうか?
「……その後、その相手とはどうなったんですか?」
「相手の男も悪いヤツじゃなかった、他人に心を伝える意味を、よぉく考えたみたいでね。 その点じゃ、スズミヤの『教え』を最初に忠実に受け継いだのが、あいつかもしれないな……。 ん? ああ、結局巧く行ったさ。 そして」
思わず身を乗り出していた私の鼻先で、彼は不意に言葉を閉ざした。
「そして、スズミヤは幸福の登り始めで、事故に遭った」
「あ……」
彼女自身は心を決して折ることがなかった。
だがそうだ、彼女は「奇跡の眠り」によって、それまでの人生を強制的に手折られたのだ。 しかも未来が見え始めた、矢先に。 それは未だ知られざる事実だった。
「そうだ、そんな彼女が好んでた言葉は、『星に願いを』だったな」
沈黙してしまった私を横目に、彼は頬杖をついて緩やかに窓の外を見やった。
「『夜空に星が瞬くように、溶けたこころは離れない。 例えこの手が離れても、ふたりがそれを忘れぬ限り』……だったかな。 最後に耳にしたのは随分と前のことなのに、私もよく覚えているものだ」
「おまじないのようなものですか……? それは後年の神学への道にも通じるとか……」
「いや、そんなものじゃないだろう。 『二人がそれを忘れぬ限り』、つまりこれは神道の願掛けに近いものなんだろうね。 星に願いを掛けるのは、消えない星に掛けて自らに行動を誓うようなものなのさ。……少なくともスズミヤは、想いを神頼みにするような女の子ではなかったよ」
星に願いを、誓う……
「『本当の気持ちが、一番大切』であり、そして『本当の気持ちを、忘れさえしなければ』……それが、スズミヤの生き方だったんだろうね。 彼女は自分の夢である絵本作家への道にも、長年の想い人への恋も、そうやって向き合ってきたんだよ。 あの夏、彼女には親友や恋人を含めて、本当に色んなことがあったあの夏に、それらが実を結び始めて、彼女の人生は大きく変わろうとしていたわけさ」
「……それで、どうなったんです?」
気忙しく先を聞こうとする私を見て、老紳士は一瞬何処かの好青年とも見まがえるような不思議な笑みを浮かべた。 私のユノミに低重力下で巧みにグリーン・ティーを注ぎながら、彼は可笑しそうな表情を変えぬまま口を開いた。
「さあてね、私は知らないよ。 私は彼女の恋人でもなければ、親友でもなかった。 一種の観測者みたいなものさ。 それにあの夏の答えはそれこそ彼女の人生の中にある、彼女の教義を読んでよく考えるこったな。 彼女のその後の人生については、お前さんは私よりずっと詳しいはずだろう?」
インタビューを終える頃にはカフェも夜の側に入りつつあり、軌道リングの灯りが真っ直ぐに煌く軌跡を闇の世界にもたらしていた。
「今日は貴重なお話をありがとうございました」
「いやなに、年寄りにとって想い出話というのは楽しいものさ。 それに懐かしかったよ、この話はもう長いこと話す相手がいなかったからね」
そう言う老紳士が一瞬浮かべた寂しそうな表情は、私が忘れていた事実を呼び覚まして鈍く胸を突いた。 そう、あの事故に関わった人たちの中で、今も生き残っているのは彼しかいないのだ。
「───失礼ですが、その後彼女とは?」
「私が彼女に最後に会ったのは彼女が日本を去る直前さ。 そう、君らが『覚醒』と呼ぶあの時だよ」
視線を地球の闇に向けながら、彼はゆっくりと続けた。
「ある日目覚めてみると両親は老いていて、恋人と妹は結婚している。 親友も、友人も、みなそれぞれの人生を歩んでいる……彼女の居場所なんてのはとっくに消えていたのさ。 冷たいなんてことはわかっている、でもそれが人生という現実だったんだよ、お若いの」
苦味を胸の奥に押し込めるような彼の言葉。 この日初めて、私は彼の姿に「老い」を感じていた。
「私たちの歩んできた二十年の人生は余りに重く、二十歳の心の差は余りに広かった。 まだ十八歳の心だよ? 彼女は泣き出したり、絶望したり、当り散らしても不思議じゃなかった。 なのに彼女は一つだって恨み言を言わなかったんだ。 二十年後の世界にただ一人で放り出されたスズミヤが私に向けた言葉は、『こんなに長く眠っちゃって、ごめんね』だったのさ」
老紳士の目は、ただ暗闇だけを映していた。
その瞳は宇宙の闇の向こうに、何を見ているのだろう。 失われた時だろうか。 後悔の念だろうか。 だが第三者である私にだって分かる一つの事実に、この長い時を生きてきた彼が気づいていないわけがない。 ……そう、今こうして歳を経て振り返っても、当時の彼らの選択は最善の物だったということを。彼らが何もできなかったことを、誰も責められはしない。それは絶望的なまでに、仕方が、なかったのだ。
彼の呟くような言葉を聞きながら、私はふと生前の聖ハルカが、何故その過去を他人に語ろうとしなかったのか、理解できたような気がした。 彼女にはもう絶対に届かない幸せな時間。 如何に彼女が強い人間であったとしても、それを二十年の時の向こうに押し込もうとしたのは当然のことだろう。 だが一方で、彼女の優しさと折れない芯の強さはその時間を忘れ去りはしなかった。それをただ、何処か別の場所に向けるよう彼女自身を変えてすらしまったのかもしれない。
彼女は決してその過去の時間を「理想郷」にして逃避などしなかった。
そうできる程弱いほうが、どんなにか楽で、幸せな人生を送れたかもしれないというのに。
「彼女が著名な司祭として国際政治の場で活躍し出したと聞いたが、私たちは果たしてそれが喜ぶべきことなのか分からなかった。 その頃には私たちも老いて、人生に少しは余裕ができていたけどね。 今更彼女に帰って来いなどと言えるはずもない」
いかなる時も想いと救いを信じ続け、人々を癒す笑みを失わなかった彼女。
聖ハルカ・フランチェスカ・スズミヤ。 宇宙空間を第三世界に開放するために走り続け、重力障害者となる軌道労働者の救済を唱え続けた。 夢を叶えたその場で反動アメリカ主義者のテロによって殉教するまで、自らの命すら顧みなかった、二十一世紀最高の聖人。
だが。
「私たちはスズミヤが好きだったよ、だが、だからこそ」
その刹那に彼の老いは消え、何かを噛み締めるような強さが戻る。
「彼女が司教になってからは、私たちの誰一人として彼女に会いに行った者はいない。 会えば彼女が苦しむと分かっていたからね」
タイラ氏はそう言い残すと、陽の沈んだ展望窓を後にした。
代わって世界を満たした星々の光に、まるで追い立てられて行くかのように。
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