君が望む永遠アフターストーリー
「相変わらず、暑い、なぁ……」
柊町よりも明らかに濃いセミの声。
頭上に広がる宇宙の色に近いような深い青。
太陽に挑むかのように強い光を返す濃い緑。
深い潮の匂いをはらんだ一陣の風。
夏、という言葉を具現化したような世界が、病院までの道のりに陽炎と共にそびえ立つ。と言っても、暑さをしのぎたければタクシー代ぐらいは持ってるし、あるいは横浜じゃあまり見かけなくなった古い型のバスに揺られるのも風情かもしれない。
それでも、私はこの道を歩くのが好きだった。
この風景こそは、目を覚ました自分が一番初めに見た、外の世界なんだ。変わっていて、変わらない、そんな夏の欅町を歩いていると、今も私は不思議と「帰ってきた」気分になる。
「それに、リハビリの効果も実感できるし……」
日傘の下、サマードレスの襟元を伝う汗の感覚を忘れようと、私は自分に言い聞かせるように独り言をつぶやいた。
(ううー、例え好きで歩き始めても、結局最後には暑さに負けちゃうなあ……)
それでも、自分の足で歩けることの嬉しさは、一年経った今でも感じている。四年前には想像もしなかった感覚は、薄れることはあっても忘れることはないんじゃないかと思う。
ようやくたどり着いた病院のロビー。効き過ぎないよう調節されたクーラーでも、十分に身体に篭った熱を冷ましてくれる。とりあえず一呼吸して落ち着いた後、私は手馴れた感じで受付を済ませ、あとはのんびりと呼び出されるのを待つ──と言っても、今日の検査は半ば病院側の都合なので(私はこれでも一応国からお金が出るくらいの研究対象らしい)、普通の外来のようには待たされはしないんだけどね。
それに手馴れてるとはいえ、欅総合病院に来るのは実に三ヶ月ぶり。だけど、前と同じ受付の看護婦さんは、普通に顔なじみとして声を掛けてくれた。
……自分がこの病院では『ちょっとした有名人』だという事実には、とっくの昔に慣れていた。最初はちょっと同情めいた気がして嫌だったけど、それが周りの人たちが本当に私を心配してくれていた結果としての親しさだと分かるのに、それほど時間は掛からなかった。
「あら涼宮さんじゃない、お久しぶりね」
「あ、お久しぶりです」
いつもの眠そうな声を掛けてきてくれたのは香月先生。先生は一瞬眉をひそめて、
「何処か具合でも……って、今日は沙霧先生のトコだったわね。自分の担当じゃないからすっかり忘れてたわ」
あっさり最初の疑問を自己完結さ、それからふと思い出したようにチラリと時計に目をやって歩き出す。
「さてと、回診の途中だからまた後でね。ああ、今日も『寄って』いくのかしら?」
「あ、はい……多分いると思います」
振り向きざまの先生の言葉に、私はいつものように答えを返す。あの場所をひとりで過ごすのも好きだけど、香月先生との会話はそれだけでも楽しいから。
「そ、ま、私も後で一服入れに行くわ。喫煙所があるのに医者はそこじゃ駄目だなんて、ホント理不尽よねぇ……」
踵を返しつつ先生はしみじみぼやき、そのままヒラヒラと手を振って気だるそうに歩み去った。白衣が無ければとても医者には見えないだろうその後ろ姿とは裏腹に、皮肉と直言を使い分ける厳しい先生。でも香月先生って、なんか私に接するときだけは、不思議と身軽なんだよなあ。
「涼宮さーん、涼宮はるかさーん、臨床心理科窓口までお越しくださーい」
結局、全ての検査が終わったのは夕方になってから。ま、十分に予定通りだけど。
(あんまり早く終わっちゃっても、ちょっと暑すぎて困るし)
そんなことを考えながら、私は見慣れた鉄の扉を押し開けた。真夏の外気に触れているはずなのに、その扉はいつもと変わらずひんやりとしていた。
踊場に響く重い音を背中に屋上へ。一歩足を踏み出した途端、茜色の世界が視野を埋め尽くす。いっぱいに干されたシーツが夕陽で真っ赤に染まり、目の前が少しくらくらした。
病院の屋上。一年前、籠の鳥だった私が自分ひとりで触れられた、唯一の空。遮るものなき文字通りの蒼穹であり──同時に、何処へも行くことのできない、天と地の間の隔離された世界だった。
退院してからも、病院に来るたびに私はこの場所に足を運んでいた。外の世界を取り戻してはいるけれど、逆にこの出窓のような場所からは普段の外の世界を一歩引いて俯瞰できる……そんな気がしてるから。
この場所をこよなく愛する人がもうひとりいる。シーツの向こうから漂ってくる紫煙がその答え。医者の煙草に向けられる目が厳しくなってきたのがその理由みたいだけど……結果として、たとえ香月先生の診察がない日でも、病院にくるたびにこの場所で先生と言葉を交わすのが定番になっていた。
「あ、やっぱりいらしてたんですね先生。お疲れ様です」
と、金網にもたれて空を眺めていた香月先生に声をかける。
「あら、そっちこそお疲れ様。わざわざ来てもらったりしてごめんなさいね……沙霧君も来期研究費が出るかどうかの瀬戸際のところだから」
と、相変わらずの調子。言葉尻に乗せたかすかな皮肉の響きからも、香月先生は沙霧先生とはいまいちソリが合わないという事実が伝わってくる。
「あ、いえっ、その、こうやって検査してもらえると私も何かと安心できますし」
定期的に身体を見てもらえるのが安心なのは本当だった。だけど、実はあの先生が苦手なのは私もちょっと同じだったりする。そんな気持ちがつい慌てた返事に出てしまったのか、香月先生は悪戯っぽそうな表情を浮かべた。
「あら涼宮さん、ああいう美男子はお嫌いかしら? 頭脳明晰将来有望、彼がお目当ての患者さんも結構いるのよ? 結婚だなんて酔狂な過去が唯一の欠点ってトコかしら」
「あ、あはは……そ、その」
と私も苦笑い。
もう、香月先生も意地が悪い。私の苦手意識は先生とはとっくに共有してるのに……。もちろん、沙霧先生はお医者さんとしては完全に信用してる。なのに、男の人としては──どうしてこんなことを思うんだろう──何処か信用できなかったりする点は香月先生と同じなんだ。
「私の妹によると、DNAの螺旋構造が備える量子通信性による
とは、前にこの話をしたときの先生の台詞。なんなんですかそれ、と聞き返しても、言葉の中身については先生もさっぱりなんだって。
それにしても、「結婚」と言ったときの香月先生の言葉には、かすかに侮蔑の色が含まれてたのは気のせいかなぁ?
傾きゆく陽の中で、いつもの時間が過ぎてゆく。
「あ、そういえば星乃さんは今日はどうしたんですか? いつもは沙霧先生の時でも私を担当してくれてたんですけど」
「ああ、彼女今ちょっと研修に出ててね」
「あ、小児科のアレですか」
「そうそう、耳が早いわね」
「ふふっ、一応お馴染みさんですから」
耳をかすめる潮風と、遠くに響く潮騒の入り混じるこの空間に流れる、取り留めもない話。
実はこの場所って、私にとっては家よりも何処よりも、寛げる世界なのかもしれない。
「それよりどうかしら、『三年後の世界』ってのは? もう慣れた?」
「え? えっと……そうですね……」
流れる雲に目をやりながら、私はどう答えたものかと考える。そういえば外の話を香月先生とするのは久しぶりだったっけ。
「さすがに慣れましたよ。日付書くときとか」
ちらりと目を横にやると、先生は眼鏡の奥に優しい笑みを浮かべていた。
「……未来が便利だってよく分かる気分です。携帯は便利だし、インターネットにはお世話になりっぱなし、ぐーぐるさんがいなかったら私はずっと浦島太郎でしたし、それにパスネットは楽ちんです」
「ま、時の流れは偉大、ということかしらね」
そうですねぇ、と軽く相槌を打ってから、ふと頭に湧いた台詞を紡いでみる。
「なんか……色んな人によく聞かれるんですけどね、三年後の世界はどうだって。心配してくださるのは嬉しいんですけど、でも……」
「でも?」
「あの……皆さんが言うほど大げさな話じゃない気がするんです、なんとなく」
私のその台詞に、香月先生はちょっと遠い目を海の向こうに向けると、深々と煙草の煙を吐き出した。
「なるほど、ねぇ……」
とその時、背後で耳慣れた鉄の扉の開閉音が響いた。ぱたぱたとした靴音と、ばさばさという布地の擦れる音と共に、かき集められたシーツの合間から看護婦帽がちらりとのぞく。
「あっ、遙ちゃんお久しぶりですっ!」
その小さな身体で器用に干されたシーツを集めながら、律儀に声を掛けてくれたのは天川さん。巨大な白い塊がひょこひょこ動いてるようなその姿に、私は思わず苦笑する。
「今日は具合でも悪いのですかっ? こないだお渡しした薬が間違ってたとかっ? それともそれとも……」
私は慌ててただの検査に来たことを伝えると、彼女はようやく安心して満面に笑みを浮かべ、そしてひょこりと頭を小さく下げた。
「天川さんはお仕事中なので、ご挨拶だけでごめんなさいです。また今度『女のゆーじょー』について熱く語りましょおっ! ではっ!」
「あ、うん、また今度」と返事をする間こそあれ、天川さんは怒涛の勢いで屋上を駆け抜け戻っていった。
あ、天川さん元気だなあ……。
再び鉄の音が響くまで、私も香月先生もなんとなくその後姿を見送っていた。
やがてシーツが消えて妙にすっきりとした屋上の空間が帰ってくると、不意にそれまで耳にしていなかったカナカナの声が聞こえてくる。夏の風物詩でありながら、涼しさと、夏の終わりを予感させる、茜色の世界にふさわしい音楽が。
「看護婦さんってお忙しいんですね」
「ま、本当は忙しくなんてないほうがいいんでしょうけどね」
と、香月先生は苦笑する。
「でも私看護婦さんって好きですよ、なんか凄く頑張ってる感じがするっていうか……」
香月先生は新しい煙草に火をつけると、また深々と胸を膨らませ、その紫煙は赤い光のなかをゆっくりと吹き流されていった。
「ま、彼女も涼宮さんに励まされた一人だしね」
「先生……それは大げさですよ」
天川さんが心臓の難病を克服したのは確かだけれど、それが私を診てたからだなんてのは、ちょっと買いかぶり過ぎ。
「あなたがそういう性格だからこそよ。誰かにどうこうしようって言うんじゃなくて、自分の為に頑張ることで、他の人を動かしてしまう。正直、涼宮さんの真っ直ぐな若さは羨ましいわ」
私ももう若くないしね、という定番の台詞は、何故か語られることなく潮風に消えていた。
「私は……私が動かしたいのは自分の世界なんですけどね……」
香月先生の感傷深い言葉に、私もついそんな独り言を呟いてみる。こんな呟きを受け止めてくれる場所は、もうこの屋上の世界にしかないのだから。
水月のいない世界。孝之君と茜の遠い世界。
この一年間は、未来との戦いなんかじゃなくて、そんな現実との勝負だった。だけど──
「涼宮さんの見た『三年後の世界』は、皆が言うほど大げさなモノじゃなかった、か」
しばしの沈黙。やがて夕暮れの風が運ぶ冷たさが身体に染み入る頃、そろそろ中に戻ろうと歩き始めた時。戻り際の最後の台詞といった感じで、香月先生が私の方をゆっくりと振り返った。
「涼宮さんは……何故そう言い切れるのかしら」
いつもの全てを見透かしているような目ではなく、かといって詰問しているわけでもない、好奇心、という言葉を瞳に固めたような、珍しい表情を先生は浮かべていた。
「え、その、何故って、それは……」
何故だろう。
「それは、あの、やっぱり……」
私は思わず腕を組んで考える。香月先生も歩みを止めて、私の顔を覗き込む。
辛いことがないわけじゃない、この世界。
でも、それを「大したことない」と言えてしまう、その理由は──
「えと……お、女の勘……かなっ」
そうとしか言いようがなく、私は苦笑と共に正直なところを答えにした。
「……へぇ」
香月先生は一瞬真顔になり、やがてこんなに可笑しいことはない、というような珍しい表情で吹き出した。
「ふ……あはははっ!」
私も釣られてクスクスと声に出してしまう。
「参りましたわ、涼宮さん」
「あ、今日は私の勝ちなんですね」
夕闇に消えゆく茜色の世界を後にしながら、誰もいなくなる屋上に、女二人の笑い声がこだまする。
波乱に満ちた大転回も、紆余曲折の大恋愛もないけれど。こんな世界が、あるいはこんな日常こそが、
──大したコトのない世界の幸せな日々。
NO MATTER WHAT HAPPEN, THE LIFE GOES ON...
お久しぶりでございます、維如星です。
とりあえず公開、後書きは後ほど(苦笑)。