君が望む永遠〜短編サイドストーリー
MACHINA EX DEO
水月と彼女の猫
─── As the Moon Revolves. ───
イントロダクション
五月雨がしとしとと降り注ぐ頃、
その日も三日目の雨だった。
だから彼女の長い長い髪も僕の身体も水に濡れ、
僕らの気持ちも晴れない雨の憂鬱に沈んでいた。
彼女に合わない男物の傘を打つ雨の音と、ダンボールを叩く雫の音。
大きなバッグを抱えた彼女の悲しげな表情には、何故か涙も浮かんでた。
そんな中で僕たちは目が合って、
彼女は涙を忘れてにっこり微笑み───
こうしてその日、僕は彼女に拾われた。
だから僕は、彼女の猫だ。
君が望む永遠サイドストーリー
水月と彼女の猫
彼女の日常
「じゃ、行ってきまーっす」
それは朝。
とても大きな彼女の家に、食卓を離れる彼女の声がこだまする。
彼女は多分高校生で、毎日朝早く大きなバッグを持って駆け出して行く。
ただの学生にしては出るのが早いし、帰りもよく遅くなる。なるほど、これは人の言うところの「部活」か「遊んでる」のどちらかだと思うけど。
まあ、猫の僕には興味もない。
──アル、行ってくるねっ
ただ彼女は恋人のように優しくて、その髪はいつも水に濡れたようないい匂いがしていた。彼女の胸の上はとても柔らかくて暖かく、そして彼女は猫に対する敬意を知っている。
僕にとってはそれで十分で、僕はすぐに彼女のことが好きになった。
彼女の帰りが遅くなれば、僕は窓から部屋を抜け出し庭に立つ。そんな日の彼女は、あの匂いがいつもよりも強いんだ。だから、彼女が帰ってきたのがすぐ分かる。
長くて綺麗な彼女の髪。それは雨上がりの太陽のような、心地よい香り。
やがて彼女は少し疲れた顔をして帰ってくる。だけど僕を見つけるとすぐに僕を抱き上げ、はしゃいだように今日の武勲を語ってくれるのだ。
───彼女が「遊んでる」のではなく、水泳をやってると気づくのに大した時間は掛からなかった。
夜、彼女は時々長い電話をする。
彼女は時に笑い、時に怒りながら、それでも真剣に何かを話し込む。
何を話してるのかは分からない。
だけど、それは電話を終えてからの、忘れていた秒針の音に僕の耳がピクリと震えるまでの僅かな時間。短い短い静けさの中で、彼女は僕があの雨の日に見たような、本当に微かな悲しい顔をするのだ。
それは悲しみというより、戸惑いなのかもしれない。
僕は彼女を慰めたくて声を掛けるのだけど、彼女は僕の声を聞くと表情を隠して笑ってみせる。その点、寂しいことだけど、僕はどうもまだ彼女の恋人とは言えないらしい。
───とまぁ、こんな風に日々は繰り返してゆく。
くすんだ床板の柔らかい感じと、替えたばかりの畳の匂い。僕の爪も立たないほど黒く硬く磨かれた木の柱。古くて大きな彼女の家が静けさと優しさで彼女の元気を包み込み、僕はその中で丸くなって眠るのだ。
最初の夏
分厚い雨雲は北に去り、僕が初めて彼女と過ごす夏が来る。
彼女の友達がよく家に来るようになっていた。
彼女の名前は遙。遙さんは彼女よりも柔らかくて可愛くて、遙さんが僕の髪を優しく撫でると、彼女とは違う甘い匂いがふわりと漂う。
でも僕はやっぱり、太陽みたいに眩しい彼女の方が好きだ。
彼女と遙さんは楽しそうに話をする。
学校のことや新しい音楽のこと、水泳のことや遙さんの恋のこと。
でも彼女が帰った後、それから夜の電話の後も、夏の暑さが進むにしたがって、彼女の辛そうな表情は憂鬱の重さを色濃くしてゆく。独りのときも、僕といる時も、彼女はいつも何かを悩んでた。
──アル、今日はすごくいいことがあったんだよ
ある日、彼女はそう言って僕を抱きしめた。
今日の僕は抱き上げられる気分じゃなかったけど、彼女は珍しくそれに気づかない。
それに「いいこと」があったはずの彼女の腕は小刻みに震え、彼女の目は僕よりもずっとずっと遠いところを見ている気がした。
彼女の小さな呟きが聞こえる。
「おめでとう、遙」
彼女の憂鬱は晴れぬまま。
こんな風に夏の日々は進み、セミの声が世界を賑わす頃。
その日、彼女は幸せの匂いをいっぱい漂わせて帰ってきた。
家の階段を登る彼女の足取りは軽い機敏な子猫のような音を立て、部屋につくなり僕をひざの上に載せ、夏の日差しにその手をかざして笑顔を浮かべた。
──ねぇアル、これ似合ってるかな
彼女の左手に煌く綺麗なもの。それは、見たことのない指輪だった。
きらきら光るその指輪は、久しぶりに見た彼女の笑顔と同じぐらい眩しくて。
僕は、この日をいつも思い出す。
この時が、彼女の一番の笑顔を見た最後の日だったということを。
夜の電話に飛び出していった彼女が戻ってきてから一週間。
目の前に置いた指輪を前に、
彼女が泣いた。
僕に理由はわからない。でも、僕のとなりで長い時間泣いた。
悪いのは彼女じゃないと思う。僕だけはいつも見てる。
彼女はいつでも誰よりも懸命で、誰よりも笑顔が綺麗で、そして誰よりも人のことを真剣に考えてる。
彼女の呟きは、やがて悲痛な叫びとなり僕の耳を打つ。
──私、わたし
「私、なんてことを──」
この広い天球を白い月が何度も巡り。
彼女の笑顔は少しずつ戻ってきた。
だけどそれは、あの太陽のような眩しいものではなくて、
例えるなら空に浮かぶ月の、更にそれを水面に映したような笑み。
彼女は家にいることが少なくなり、いつしか彼女の髪からは太陽の匂いが消えていた。
遙さんが家に来ることもなくなり、変わって一人の男が時折顔を出す。
でも僕はこの男の、湿った笑みも重たい匂いも大嫌いだ。その匂いが彼女の髪を支配しているのも気に入らない。
まぁ、僕もだいぶ大人になって、彼女が望めばコイツに頭を撫でさせるだけの分別はついた。もちろん、その後の念入りな毛繕いを忘れない。
これから、彼女はどうなるのだろう。
彼女のことが好きな僕には、それだけが重要だった。
彼女と彼女の猫
月は、音も匂いもないこの闇の中を飽きることなく進み続ける。
時は巡り、彼女と過ごす四度目の夏も終わりを迎えようとしていた。
遠く聞こえる花火の音、時折微かに漂う潮の香り、白陵の丘の濃い緑。
この街の夏は、すっかり僕のものになっていた。
この夏、帰ってくる彼女はいつも酔っていた。
酔うという行為は猫の僕には分からない。多分、興味もない。
僕の興味はただ一つ、酔うたびに涙を見せる彼女の瞳だけなのだ。
やがて少しずつ涼しい風が吹き始め、いつしか彼女の髪からあの嫌な匂いが消えた頃。
その日も彼女の頬は涙に濡れていた。だけどその顔に浮かんでる笑みは、僕たちが出会った頃に見たあの太陽のような笑顔に、一番近いものだった。
彼女の中で何かが変わったことが、僕には分かる。
だって僕は彼女の猫で、彼女は僕の恋人なのだ。だから、
──アル、一緒に来てくれるかな
だからそんなことは、当たり前のことなんだ。
その日、僕はバスケットに入れられて、初めて電車と言うものに乗せられた。
狭苦しい世界は嫌いだけれど、開け放たれた窓から入る気持ちのいい風と、窓の外を流れる風景はまぁ悪くない。後ろを眺めた僕の目に、遠ざかってゆく僕たちの街並みが霞んで映る。
風の匂いをまとった彼女の髪と、
彼方に白く輝く海の微かな音と、
彼女の心と僕の気持ちと僕らの大きなバッグ。
風は夏の暑さを運び去り、時の流れが僕らの日々を想い出にしてゆく。
大きな風の音の中でも、
彼女の確かな鼓動の響きだけはピンと立ち上がった僕の耳に届く。
去り行く世界。自分の世界を離れるのは、猫の僕にも辛いこと。
まぁ、新しい世界も、彼女と一緒なら構わない。
だけど、
僕も、
それから多分彼女も、
いつかこの街に帰る日を、信じてるのだと思う。
───HAVE A LITTLE LOVE ON THIS WORLD.
† あとがき
†
パロディがシリーズと化したようです
(^^;; またもや。
言わずと知れた
「彼女と彼女の猫」より。5分の作品に詰め込まれた、小説と言っても良い見事な表現の連続への感動と、本編中でほとんど描かれることのない水月の「舞台裏」を書いてみたいという発想が結びつき、この作品は生まれました。
水月、なんか最近ちょっと見直し中です。
なお本作品は、かなり「音読」を意識して作られたSSです。個人的には是非新海さんの声を当てていただきたいものですが
(ぉ)
それでは、また次の作品で。
こんな作品でも、
御感想いただければ幸いです。